「いただきます」ということば

聞き耳を立てる
<食前の言葉>        <食後の言葉>
みひかりのもと        われいま幸いに
われいま幸いに        この浄き食を終わりて
この浄き食を受く       こころゆたかに
いただきます         ちから身にみつ
               ごちそうさまでした


最近、『食育』という言葉を耳にしました。
これを聞いて、とても大事だなぁ、とおもいました。
「食べる」という行為は、いのちをつなぐということでもあり、いのちを食べるということでもあると思います。

読書宗教には必ず、厳しく戒められる決まり(戒律)があります。
その中の一つに、『不殺生』というものがあります。
これは、完全に守りきることはできないので、せめて半日だけ何も食べないとか、せめて今日だけは肉や魚だけでも食べないようにしようとか、様々な工夫によって、いのちの大事さを教える儀式として伝統されてきています。
かつての日本の律令国家の時代には、八戒斎(はっかいさい)という、なるべく殺生をしないという法律までありました。
例えば、八戒斎の時期には死刑執行は行わない、戦争はしない、時間を過ぎたら食事をしない、などです。

料理も精進料理。なるべく質素にすることを心がけ、必要以上にカロリー摂取しない・食べ過ぎないように、などいろいろ工夫されています。
それは単に健康に気をつけてというだけではなく、食卓に並んだいのちに対しての敬意の表れではないでしょうか。


食べるという行為そのものが、「いのちを殺さなければ生きていけない」という当たり前の事実を突きつけられ、それをたんに知識としてだけではなく、人間の悲しみとして受けとめていく。
このことが大事ではないでしょうか。
そのためにはいのちにたいして思いを巡らすこころの余裕と、それをつくりだす心の豊かさがなければいけないでしょう。
飽食の現代はこころの貧しさが広がっているといわれています。
お金を出せば、好きな時間に好きなものを好きなだけ食べられると安易に考える。
あるいは食べ残したり、暴食することを、なんとも思わなくなる。
(ん〜、自分的にも苦しいね〜ショック

これは、いのちという本質を見失い、自分自身をも苦しめていくことになるのでしょう。

                                 大攝

いやぁ〜 あたたかい

お参りに行くと、たいがい会話がない時の話題は天気の話。
みんな経験あると思いません?
やっぱ、それ位じゃないと場が持たないんですよ。
まじめな話もたまにするからいいもので、ふだんはざっくばらんさも大事ですからね。

「このごろはずいぶんと暖かくなってきましたね。」
「そうですね」
「バイクは暑くないですか?」
「いや〜もう暑いぐらいです。」
こんな会話が止めどもなく続きます。

ところで、話はかわりますが
先週から住職と坊守がシルクロード遊学のために行っていて二週間留守をしています。
その間の留守番におお荒わです。
帰ったら面白い話や写真集の更新が目白押しではないでしょうか、期待して待つことにしましょう。


ちなみに28日から永代経法要が始まりますよ!
きょうはそのための事務作業をしてもらうための作業をしていました。
まもなく門徒の家庭に届くでしょう。
どなたもお参りください。

汝正念にして直ちに来れ

見る仏足石の台座が出来上がりました。
三日間かけて左官の角さんに作っていただきました。
台座の高さは角さんのアイデアで折足礼(せっそくれい)ができる高さにしました。




この足あとは左足のみですが、方向は本堂の阿弥陀如来(西方)に向かっています。
これは善導大師の「二河白道の譬え」に出てくる西からの声(阿弥陀の召喚の声)に呼ばれ、その声のする西へ向かって白道を歩いていく釈迦の姿を表しています。






読書夜は「教行信証拝読の会」でした。
今日は真仏土の巻のはじめに戻り、有為(うい)と無為(むい)のことについて学習しました。

仏教は無為を説きますが、私たちはいつも有為を求めてしまいます。
それは努力してエラい人になりたがったり、なにかと目に見える成果を求めてしまいます。
しかし、法然上人が云われたことは「愚者になりて往生す」といわれたのですから、学べば学ぶほど自身が愚かなものであるという身の事実を知らされるということです。
努力しても人間には「死」がある。
愛すれば愛するほど別れが辛くなり、更に苦しみは増していく。
諸行無常である。
しかし、愛せずにはいられない。
「愛し尽くせない」ということにおいて愛をいただく、そういうことです。

人間というものは、煩悩が欠け目なく備わっているから、どんなに努力しても仏には成れない。
平和の為に戦争をしたり、魚や野菜のいのちをとって生きている。
そんなものがどんな努力をしても仏には成れない。

「仏性」は我々にあるのではなく、仏の慈悲が仏性。
自分たちのなかに仏に成れる種があると思うから迷いが生じる。
これは「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」(信の巻p210)ということになる。
現世で仏に成れると自らを誇って疑わないもののこと。
仏教は人間の理想から出発するのではなく、人間の現実から出発する。
これが「素直」ということ。

うひ(有為)のおくやまけふこえて、あさきゆめみじえひもせず。
         (人は本当でないことを本当であると信じてしまう。)




という話がありました。

日曜学校

きょうは、雨でした。雨
ざんざん降りです。
どうやら恵みの雨です。

そんななか、きょうは13人の子供たちがきました。
そのあと、みんなでお茶会をしました。
(・e・)





萬行寺日曜学校は、少なくとも100年以上は続いている歴史があるようです。先々代の坊守が萬行寺にきた時にはすでに子供たちが集まって正信偈をあげていたそうです。
その頃すでにいつ誰が始めたのか知らなかったといいますから、ひょっとしたら明治時代ぐらいから続いているのかもしれません。そうなると100年以上になります。
これは残念ながら、今となっては知る術もありません。

 昔は萬行寺から遠く離れた日並や長崎市内からも何キロも歩いてきていたようです。今は交通の便が良くなり、以前よりまっすぐで歩きやすい路が出来たのですが、昔より近くなりましたが子供たちを取り巻く状況も変わったことなどもあって、お寺に足を運ぶ人の数は減っているようです。これも過疎化と高齢化の影響ではないでしょうか。

ここからは想像なのですが、当時は学校というのもないですし、子供を通わせるのにも、お金もなく、家の田植えや畑仕事などに子供たちも貴重な労働力として参加していたような時代だったようですから、そのことを思えば、日曜学校というのは子供たちの唯一の学びの場だったのではないでしょうか。

今のように塾や学校がないのですから、したがって受験勉強もする必要もなかったのでしょう。
更に昔に遡れば、信長の時代に日本にやってきた宣教師が、日本人の識字率をみて驚いたようですが、その当時、蓮如上人の御文がさかんに読まれていたことから、そういった識字率になったようです日本人の文化レベルの高さはそこからきているのかもしれません。

そうして考えてみると、「人間は考える葦である。」というように、考えるから人間は現在の人間にまで辿り着くことができたのです。
しかし、勉強することは、そういった意味でとても大事ですが、仏の教えは、そういった世間を生き抜く知恵を教えるのではなく、もっと人生にとって根本的なこと、自己とはなにか、”ヒト”として生きること、生まれた意味や、いのちの尊さがわかる人になってほしいという仏の願いがあります。

大切なことがわかっていないなら、いくら勉強しても、原子爆弾をつくったリ、独裁者になってしまうこともありえますし、人の心の痛みがわからない人間は自分をも苦しめていくことになっていきます。
そういう意味で、人間を考える教育の場はこれからも大切に守っていかなければいけないのではないかと思います。

     ーこどもの三帰依文ー

   わたくしたちは ほとけのこどもになります。
   わたくしたちは ただしいおしえをききます。
   わたくしたちは みんななかよくいたします。

「非核非戦」の碑って知ってますか?





門徒の方の家にお参りに行くと、たまに61年前の夏の話を聞くことがあります。
「原爆が落ちた時に家族は長崎市内に住んどったとですよ。ちょうどそん時はわたしは長崎ば離れとったもんですから、自分だけ助かってしもうた。なんか申し訳なくて・・・でも、家族はどこでどうやって死んでしまったかわからんとですよ、今となっては探しようがなかですけんね。残念です。」
これはあるおばあさんの話です。
その時に長崎教務所の境内地に建っている「非核非戦の碑」のことを話すことがありました。
その方は、いまでも毎月そこで法要が行われていることを知ってとても驚かれていました。
それから、たびたびそういった話が出るたびにそのことを話すのですが、どれほどの方がその碑のことを知っているのかとおもい、このブログを書いてみようと思い立ちました。


長崎駅前に程近い筑後町、真宗大谷派長崎教務所の境内地に原子爆弾でなくなられた身元のわからない一万体とも二万体ともいわれるお骨が入っている『非核非戦の碑』があります。
そのよこには”共に生きよ”との碑文も刻まれています。
長崎教務所では毎月9日には原爆定例として、法要が勤まっています。この61年間勤められています。
8/9には原爆法要としては一年で一番おもい法要が勤まります。
毎月の法要に訪れるひとはほんの僅かですが、なかには必ず毎月お参りに来る方もいます。
かつて”焦土”と化した長崎の町の記憶は、人々の中で、遠い過去のことになりつつあります。
そんな記憶を忘却するかのように、近年では「二度と過ちは繰り返さない」と世界に誓った憲法を改訂し、また戦争の出来る国に退転しつつあるように思えてなりません。

この国がまた同じ過ちを繰り返すかもしれないこの時代に、「非核非戦」という言葉がどれほど、この現代という”闇”を照らしているか、そのことを私たちは今一度、他人事ではなく、自分の生活の中にあって、そのことを深く考えなおさなければいけないのではなでしょうか。





その碑の隣には次の縁起文が刻まれています。

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仏華講習会in萬行寺

長崎教区の仏華講習会がありました。花
この講習会は年に一回行われ、今年は萬行寺が依所でした。
読書10ヵ寺、約90名の門徒と住職や若院、役僧が集まり、仏華の基礎的なことなどを中心にした講義がありました。


先生が実際目の前で生けながら説明するという形式で、朝9時半から16時まで講義がありました。
賑やかに「ああでもない、こうでもない」といいつつ、いままで自分がやってきたやり方とは違う様子を見て疑問に思う人や、いくつも質問をする人もいました。
なかには自分の華をいけることに夢中になって、先生の華を見ていない人も一部いましたが、そのほかの皆さんは思ったよりも簡単にいける先生の様子と、出来上がった華をみて熱心に見て研究していました。
講義の後、実際に自分たちでいけてみて、それを先生に見てもらい、よくないところを手直ししてもらいました。中には一部始終メモをとっている人もいました。

賑やかな一日でした。

4月8日は何の日?

 きのう浦上駅の近くで、白い象に花飾りのついた花御堂を載せた車が走っているのを見かけました。
そうだ、4月8日は『釈尊降誕会/しゃくそんごうたんえ』です。
わたしも子供の頃、日曜学校の行事で白象に載った花御堂を牽いて回ったことがある。
しかしあのころはなんだか気恥ずかしい思いでした。

 読書「釈迦は紀元前566年の花の盛り、ルンビニー園の無優樹(むゆうじゅ)のもと、釈迦族の王スッドダーナの后、摩耶夫人(まやぶにん)の※右脇から誕生した。生まれてすぐに7歩あるいて、右手で天を指さし、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と言った。そして王子はゴータマ・シッダールタと名づけられた。」花祭りの日にこう語る父の話を聞いたことがあった。

何とも不思議な気持ちになった記憶があります。ただそのまま聞いているだけでは荒唐無稽な神話だと嘲笑におわるのであろうが、記録されたこれらの物語はいったい何が語られているのだろうか。

 その後、仏教青年会で※八相成道(はっそうじょうどう)ということや、釈迦の伝記が話題になったり、大学の仏伝講読で学んだりしているうちに、ああいう記述には深い仏教の道理というものが語られているということを知ることになります。

 経典に記録されているところはといえば、まづ釈迦は人間界に生まれる前、※兜卒天(とそつてん)や※須弥山(しゅみせん)という天上界の神の宮殿で、神々に説法していた。しかし下界の菩薩が涅槃の雲にはいったので、摩耶夫人が白い象の夢を見る機会を待って夫人の胎内に入られたという。
 これは何か、釈迦の誕生ということは、迷える衆生に阿弥陀仏の本願を説くことが、出世本懐であるということをほのめかすことに、神話的造意があったと言われています。
 
※七歩あるいたということは、造った罪の報いによって迷界に堕ちて経巡る人間の現実そのもの、すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道輪廻の迷いを超え過ぎることを示しています。
 さらに天地を指差し、「天上天下唯我独尊」と言ったというのは「無上尊」といって、六道輪廻する人間存在である自分に目覚め、その事実の自分に帰ることができたとき、はじめて独立者となることができるということを語っています。

特に現代人は人間中心主義の傾向がつよく、「人間は万物の霊長」であって、科学的知恵によっていまや人間は何でもできると思っている人は意外に多いようです。
ほんとうにそうでしょうか。この※驕慢心(きょうまんしん)が行き詰まりの元なのではないか。

 歎異抄の最後のところに、人間というものは※「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の※凡夫」であると書かれています。これが事実なのではないだろうか。またその次には釈迦の「無上尊」の宣言が高らかにつづられています。
 すなわち「※火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごとまことあるなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」です。   
                         住職 記


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新年度がはじまりました。


毎年、4月1日は新一年生のお祝いの式です。拍手
今年はあいにくの小雨でしたが、10数名の元気いっぱいの子供たちとおとうさん、おかあさんがきてくださいました。 
記念の念珠と勤行本をいただいてお勤めをします。
「いつでも、どこでも”なんまんだぶ”と念仏しよう、そしたらいつでも、どこでもほとけさまはついてきますよ」と御院家さんのお話に、日曜学校のおにいさん、おねえさんもおとうさんもおかあさんも一緒に耳を傾けました。
歌を歌ったり、記念写真を撮ったりして、楽しいひとときでした。
きっとこの日は大事な一日だったと思い出してもらえることでしょう。  ー坊守ー

編集会議

めっきり春らしくなってきました。

今日は親鸞聖人のご命日でした。
参詣も暖かくなってきた影響でしょうか前回よりは多かったように見えました。
今日の法話は住職でした。

徳風の会議がありました。
議題は萬行寺で9月24日に行われる式の帰敬式の案内状についてです。
それから次号の編集についてでした。まだ日数がありますが、5月に住職と坊守がシルクロードに遊学にいくため、急いで今のうちに叩き台を作っておくことになりました。
文章は今月のなぁにをベースに書くことにしましたが、いざ書くとなると、あの人にもこの人にも解りやすく書こうとしてしまい、かえって文章がまとまらなくなっています。
ある程度ターゲットをしぼって、多くを望まないように書かないといないなと反省しつつ・・・。


御流罪の地を尋ねて



3月5日〜7日の3日間。親鸞聖人が流罪になられた地にいってきました。

親鸞聖人上陸の地、居多ヶ浜からスタートし、いくつかの御旧跡を尋ねてきました。
その日の天候は荒れていましたが、どうしてもその浜を見たくて、飛ばされそうになりながらも、少しだけその空気に触れてきました。

聖人の求道生活は、この流罪によって、より実践的になったのではないかといわれています。
だから真宗大谷派では、ただの流罪ではなく『御流罪』だといいます。
私はその浜の空気に触れ、聖人の御苦労を想像していましたら、その浜から上がったところに記念堂があり、そこに金子大栄先生の”念仏発祥の地”の碑がありました。
そこを現在守っておられるおばあちゃんの話を聞き、確かに聖人の念仏が今に至るまで、この地にも響いているのだと、荒れた波と風の音に聞いてきました。
                             役僧 林田