あしたから法要です

萬行寺は各月に法要を行っています。
明日からは、「作上がり法要」です。






これは、「作物が出来上がったので、時間も出来たしようやくお寺に行けるようになった」だからお寺に行こう。という昔の習慣から来ているようです。
いまは農地改革で農家といわれる家庭が減り、「作上がり」という言葉をきいてもピンと来ませんが、昔は農家が多かったことと、楽しみといってもどれほどあったかは判りませんが、昔は両彼岸とともに盛んだったようです。


               7月17  日中 am10時
                     逮夜 pm7時半
                
                18日  日中 am10時
           
           お話:住職 
                『正信偈のおはなし』

つれづれ日誌

嵐が去った後の空は、色が一段と濃く、しかも普段より澄んでいうように見えます。
今日は台風一過で久しぶりのギラつくような太陽が目をさすような一日でした。

カメラ『つれづれ日誌』というくらいだから、たまには「それらしいことも書かないとな」と思いたち、カメラを抱えてバシャバシャ撮ってきました。(これはそのほんの一部です)

今日は海辺でペーロンが行われました。
萬行寺の役僧さんも参加しています。
このペーロンは、長崎独特のものらしく、中国や沖縄にも同じようなボートレースがありますが、このペーロンは長崎で独特の変化をしたもののようです。

夏になるといつも海からペーロンの鐘の音が風に乗って聞こえてきます。




この鐘は「チャンコンチャンコン」と遠くから聞くとラグタイムがあり、他の船の鐘と相まってそう聞こえます。
憶えている限りでは鐘の他に銅鑼や太鼓を乗せていて、もっと船も大きかったような気がします。それで昔は「ジャ〜ンジャ〜ン、カンカン、どどんっどどんっ」ともっといろんな音が賑やかに聞こえていましたが、最近では船の性能もあがり、軽量化のためなどでしょうか鐘だけになったようです。




いよいよ最終レース。おそらくこの時が一番緊張するんだろうな。




人でいっぱいです。
















     いや〜、いい天気!
     というより先に暑い!




お疲れさん。


明日は

凄い嵐だそうです。
河川の氾濫や家の増水などが心配なくらい雨が降るようです。
あしたは法要に向けての仏具の『お磨き』でしたが、あしたは取りやめになりました。

迷いを縁とする

     迷いを縁とする
                                   亀井 攝

 「便利になる」ということは、思うことが適うということです。仏教では、思ったことが適う世界を「天」といいます。思い上がることを「有頂天」ともいいますが、その一番高いところにある世界は「他化自在天」です。親鸞聖人が書かれた『現世利益和讃』には
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか    真宗聖典 四八八頁
 とあります。「他化」とは、他の人の幸福を自分のものにするということです。この『他化天の大魔王』とは、そういう世界に住んでいる欲深い者のことで、私たちの迷いの相です。
 
 現代は、いかに楽に、そして、より沢山の福を得ることが文明人であり。そして、そのことが適う世界を善としてきました。 そういう風にしてどんどん欲望が拡大されていく。そうなるととどまることはありません。一つ欲望が満たされても、また新しい欲望がでてくる。それでも満足できない。 そうして、なんの不自由もなく、思いのとおりにいくと、今度は逆に思った通りにならないことが許せなくなってきます。 子どもの頃から思い通りに生きている。それが当たり前だから、我慢などしなくもいい。そういった傲慢さと、人間的未熟な現代人。いざ窮地に追い込まれれば、他人も信じない。唯一の頼りの自分自身も思い通りにならず、遂には破綻してしまう。そうなれば、体は生きたいと言っても、最後には『死』しか選択肢がなくなっていく。これが現代の自力の行き尽くところです。

 新しい世代は、子どもの頃から成績という数字で評価され、学校も仕事も世間の評価で選び選ばれ生きています。そういう中で成長すれば、他人の目が気になって仕方がない。そういった他人の評価に適わない自分になってしまうことをとことん畏れます。そうすると、「自分はダメだ」といつも自己嫌悪に陥って、自分の価値を認めてくれる者、同じ価値観の者としか付き合えなくなる。そうして社会の中で役に立つものだけが評価され、そして、役に立たないものは劣っていると思う。そんな卑屈な生き方になっていきます。
 「他化自在天」という思う通りになる世界をだけを追求しいく社会は、自分の都合、価値観、物差しにかなうものだけしか信じない。まさに迷いで迷いを拭うように、ますます本当でないことを本当だと信じて疑わない世界が拡がっていく。こうして煩悩が燃え盛るようになると、自分の思いを出ることは考ええもつかなくなっていきます。そういう意味では、やはり現代人は皆、救いを求めている。
 そういうわたしたちに釋尊は「中道(ちゅうどう)」という生き方を示されます。この中道という道を
親鸞聖人は、『讃阿弥陀仏偈和讃』に曇鸞大師の言葉を引用し、
解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまう
 平等覚に帰命せよ   『真宗聖典』 四七九頁
 と表現されています。この「有無をはなる」というのは、私たちが持っている「善悪」といった自分を中心とする分別心から解放されていく道です。この分別心というのは、生は善いけれど死は悪い、健康や若さは善、病や老いは悪、という思いのことです。これらの執着心を「捨てる」のではなく、「離れよ」といわれるのです。
釈尊は「自我を離れようとする道」があることに気づいてほしいといわれ、親鸞聖人はさらに、その道は凡夫だからこそ等しく往ける道であるといわれているのです。
 親鸞聖人の歩まれた道は、自我の思いを離れられないということを徹底的に信知していくことでした。この離れられないということを信知するとは、自分は「信心を獲得できるもの」と思っている「自力のこころ」のあさましさに気付くということです。これが親鸞聖人のいわれる「信」です。そして、親鸞聖人は教行信証の総序で
  専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。
 と言われます。ここで聖人は「信を手に入れよ」とは決して言っていません。わたしたちはともすれば、信心は手にいれるものだと思い込んでしまいます。信じるというのは、「わたしが信じる」。もっといえば、信じるとか、信じないという分別で信心を理解しようとする。このこころもまた「自力のこころ」です。わたしたちは仏に成れる種が自分にあると思いあがっている「他化天の大魔王」なのです。
 教行信証の後序にある「ただこの信を崇めよ」とは、「無条件に頭が下がる」ということです。真宗の救いとは、自分の思いを離れられない迷いの深さを信知するということです。自分の迷いの懐、深淵に下りていく。 そして、そのことに気づけない自分は善人になれると思っている悪人であることに目覚め続けていくわけです。

 親鸞聖人はさらに「他化天の大魔王」を縁として、真実に出逢うよう薦められています。
これは逆境・苦境を縁とするからこそ、真実に出遇えるのだといわれるのです。
そうすることによって、他化天の大魔王もそのこころに目覚め、信心の行者をまもるのだといわれています。その煩悩の深さを信知することで自らの迷いの闇が破られていくのです。
 親鸞聖人は自身の経験を通し、繰り返しいわれています。
わたしが如来の恩徳の深さを知るためには、この道しかなかったのです。そしてその道を行ったからこそ、往きやすき近道だったということが初めてわかったのです、と。

名前について/法名の意味

この世に存在するものには必ず名前があります。

それは2種類あります。

有形(a-bhava)と無形(bhava)。

たとえば、有形のものはコップやお皿、パソコンなどの目で見て形がわかるもの。
無形のものは、こころ、愛、仏、悲しみ、喜び、などの見ようとしても見えないもの。見ようのないもの。

更に無形のものを細かく分類すると、

具体的な姿を持たないもの、空気、風、etc....
または具体的には目に見えない”こと、行為”など。仕事、修行etc....。

どんなものにも必ず名前があります。

皆、名前は必ず二つ以上持っています。
一つはそのものの存在意義を現す名前。→仏弟子、人間、生命、いきもの
もう一つは、そのものの社会的役割・関係性においての役割をあらわす名前。→母、父、先生、男、女、僧侶etc.....。
                                  +個人名(俗名)


「地球」という名まえ一言でいっても、大地、海、山、雲など一言では言えない要素や表現がいっぱい詰まっています。
「阿弥陀仏」という名まえにも、一言では言いつくせない奥深さがあります。







子どもが生まれれば必ず名前をつけます。
生まれてくる前から「ああでもない、こうでもない」と親はそれなりに命名に悩みます。
どんな名前でも、「こういう人になってほしい」、または「あなたはこういう人である」という親の思いや願いや指名が込められているのです。
そして、その子が大きくなれば、必ず「ぼくの名前はどんな意味があるの?」と聞かれることもあることでしょう。
または、折にふれて自己紹介などの挨拶で、自分の名前の由来を話すこともあるでしょう。

名前負けや、立派すぎると言われたりすることもあれば、いい名前だね。と云われることもあったり、あまり好きではなかったりすることもあるでしょう。
名は体を表すというように、とても大事なものです。
否が応でも、その名前とは”業”のようなもので、一生付き合っていかなければならないものです。

そういったように、この世にあるものはすべて名の由来があり、理由があり、縁があります。
その”縁”によっていのちは存在し、そのことによって名前はつけられていくのです。
ですから、生まれる時に名前をつけることを命名といいますから、やはりなまえとは突止めていくと究極的に残るのは、いのちをあらわすものでしかないということです。



この世に存在するものに必ず名前があるということは、この世に生きている、もしくはさまざまな生命として存在していたことを現しています。
これは、娑婆の縁が尽きてしまってからでは、その由来も縁もその願いも聞きひらくことも出来なければ、その願いに生ていくことも、仏弟子になると誓うことも出来ません。

 葬式やお通夜などで、お坊さんが法名を授けるのは、生前に仏縁がなく、法名をもらうことが出来なかったひとが、便宜上ですが仏弟子になってもらうという形式的なものでしかなく、亡くなったからあげるというものでもありません。
また、亡くなった後にあの世で迷ったり、地獄に堕ちたりしないように、とか法名が無いと迷うとか冥途に行くための名前や、死後に付ける名前ではありません。それから、字数が多い方がいいということもありません。
こういったことは仏教を世俗的な勘違いとして受け取っている方のようです。

ですから、真宗門徒ならば、帰敬式をしっかり受け、男性ならば『法名 釈◯◯』、女性ならば『法名 釈尼◯◯』と法名をいただくことが、まず真宗門徒としての大切な出発点となります。

「法名」は、仏さまの言葉から二文字だけいただきます。
その名前に込められた仏の願いに目覚め、生きることが、すなわち「仏弟子」です。
その「仏弟子」というのも無形ですが、わたしたちが志をたてる(発菩提心)ことよって、「これが仏弟子です」と具体的に、具現的に指し示すことが出来るのです。
そしてわたしたちがここに存在する意味(なぜ生まれ、そして死んでいかなければならないのか)が明らかになっていくのです。

帰敬式は、これまであった在り方、現実に流され生きるしか術を知らなかった自分から、新たに生まれ変わり、仏の弟子として人生を再スタートすると誓う式です。

帰敬式のご案内

7月の更新しました。

前回の日誌は随分とアクセスがあったようです。
実験的に仏具特集をしてみましたが、いかがだったでしょうか。


はやいものでもう7月です。
少しずつ暑くなってきました。
毎月同じことを書いているようですが、月初めにはやはりそう思ってしまいます。

トップの写真は気が早いようですが、一応夏をさきどりのつもりです。

今年の夏は暑いと予想されているようです。
個人的には、暑いよりも寒い方が苦手なので、多少の暑さは我慢が出来るのですが、なにせ勉強部屋が屋根裏にあって窓が小さい上に屋根の熱が直にくるので、以外に夏は大変です。
去年、なにを思ったか、大型の扇風機、業務用の工場扇とやらを買ってきてブンブンまわしていましたが、あまりに風が強すぎて使えませんでした。ガックシ悲しい
しかし、ことしはコントローラーを買ったので少しは快適に過ごせるのではないかと期待しています。

ところで、萬行寺のある町は時津町と言いますが、水が慢性的に足りない町なので、今年も例外なく水不足に悩まされそうです。
四国ではもっと深刻なようですね。
とりあえず、長崎は順調に降ってはいますが、夏の間の雨量がどれだけあるのかが心配です。
去年は近年にない大嵐。超強力な風の吹き荒れた台風がやってきた後には、一ヶ月以上も雨が降らない日が続きました。
その影響で塩害がひどく、門徒さんのミカン畑や山などで被害が相次ぎました。
今年はどうなるのでしょうか。
よければ、各地の様子なども伝えていただければなあとおもいます。


最近、環境破壊が話題になってますが、これはやはり人間の文明が如何にして楽をするかということに終始してしまった結果ではないかと思います。
そもそも機械文明(オートメーション)というものは、楽になる分労働力の向上になる。もしくは楽になった分これまで出来なかったことができるようになる目的で発展してきたはずなのに、実際はそうなっていないなと感じます。

環境の問題でいえば、今のような冷房や暖房器具がない時代は我慢を出来るように少しずつその環境に合うように体を慣らしていった。
しかし、今は逆で環境を人間の住みやすいように変えてしまったように思います。
夏は部屋を涼しく、冬は暖かく半袖で過ごす。
まさにいかに楽をして快適さを得ることが文明人であるかのように思っています。
自分もそうなのですから、何も言えないのですが、やはりそういったことの積み重ねが今の状況をつくっているように思います。

無量寿経巻下に「仏の遊履したまうところの国邑丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災れい起こらず。(聖典p789」[訳]仏の歩み行かれるところは国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらない。
とありますが、やはりこの災害というのは、人間が自然を破壊したから興ったのです。
なにも自然が人間にいたずらしているのではない。
むしろ人間が自然をキヅつけているから、自業自得の道理として、災害がおこる。
ということではないかと思うのです。
月や太陽や雨も初めから明るく輝き、雨も自然にとってはよい時に降っている。
しかし、人間を中心に考えると自分の思うと通りにいかないと都合が悪いということでしょう。
だから、自然が人間に猛威をふるうように感じる。それだけなのではないかと思います。

この星の住人として共生していくためには、守らなければならないことがあると自然は教えてくれているのです。まさに仏さまのようです。

これを如来と衆生の関係で言えば、仏智を疑っている。つまり、仏はいつでもそばにいるのにそれを信頼しない。または信頼出来ない衆生の在り方を一々語らなくても、自ずからがやることなすことが疑っているという事実をあきらかに露呈しているのです。

そういう仏を謗っている娑婆の只中にまでわざわざ仏は現れ、その謗らなければ生きていけない衆生と共に苦しんだり、悲しんだりする。
つまり仏が遊履することで。その人間の真実に対しての在り方が問われてくる。

環境の問題一つにしても、この自然と人間の関係でいけば、自分たちの我執や欲望むき出しの在り方そのものが問われているのに、やはり自分たちの現実にはあわないとおもってしまう。

だからといって、「明日から車に乗るのやよう」と言うわけにはいかない。
と言えば言うほどなんとも言えなくなってきます。トホホ・・・・・。ショック

今日の出来事と本尊紹介!!!

今日はこれといって特別なことはありません。
きょうは役員会と、徳風の編集会議がありました。
6月、役員会

きのうはいい天気でしたが。きょうは降ったり止んだり。
そら。

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萬行寺の阿弥陀如来。
如来は目を閉じてはいない。半眼だ。煩悩がないから笑いもしない。悲しくても泣くことはない。確かに一度も笑ったり怒ったりしたところを見たことがないね。
いつも、平常心で無我の顔やさしい顔をしている。

それから、福耳には穴がある。
うっすらとヒゲが生えているが、男でもなければ女でもない。
如来顔アップ



阿弥陀の手には水掻きがある。これはあらゆるものを救うという如来の本願を顕わすための方便。
如来の手アップ


萬行寺の阿弥陀の手1


以外にゴコウは頭にくっついていると思われがちだが、くっついていない。
如来の後光


実はゴコウは蓮の花から出ている。
これは蓮が光っているということだ。如来はその蓮の花の上に”光”として現れている。蓮の上に乗っているように見えるが、これは蓮の上に現れた如来、すなわち如来は光。
阿弥陀という言葉は”光”と”命”という意味がある。
だからこの”蓮台”が大事なんだ。
蓮は泥の中に花を咲かせる。これもつまり、どんなに汚れた世界であっても、その汚れに塗れない美しい花、光り輝く花(真実)を咲かせるという意味がある。
如来斜め後ろ姿

如来さんは裸足なんだ・・・・。
そして、足はふくよかで柔らかい。まるで赤ちゃんの足のように軽く、フワフワと気持ちがいいくらいに柔らかい。そして、どんなものを踏んでも決して殺したりしない。
むしろ踏まれたものは、その仏の法に触れ、ふたたび命が光り輝き、そして悦びに満ちあふれる。
もちろん足にも水掻きがついている。
これは、少しでも多くの人がその真実の法に触れることで、さらにその命が輝き、悦びをえさせる。これは「あらゆるひと漏らさず救いたい」。という如来の本当の願いの表現。

普段は滅多に観れない仏さまの足。
如来の足




<仏具編>


鶴亀の燭台の蓮はつぼみが前。
鶴亀 鶴の蔓


鶴亀の燭台は右左がある。三具足の場合、燭台は右側の鶴亀だけを使うのが通常のお飾り。
左用は在家の家庭ではほとんど使うことはない。
右用は尻尾が前(下陣)を向く。
鶴亀しっぽ


鶴は”大空”をあらわす。



亀は”大地”をあらわしている。これはどちらも仏の智慧をあらわしている。
この亀は何故か耳がある。玄武に似てる。
鶴亀の亀


3本足のものは、一本足が前。
香炉


上卓(うわじょく)。欄干の間に入る大きさ。
上卓(うわじょく)

ご案内。

帰敬式のご案内のページを新しくつくりました。

秋安居in長崎教務所

読書6月3日・4日・5日の三日は長崎教区の秋安居(しゅあんご)です。
安居とは、いわゆる修行です。

見る釈尊の時代には、雨期になると外に出て修行が出来ないために、雨期のあいだは晴耕雨読、道場にこもって修行をしていたことに由来しているという話です。


内容は講義が中心でお勤めの稽古や座談などがあります。

長崎の安居は全国の教区でも珍しいらしく、全寺の住職・若院・役僧・坊守・老僧の有教師者(僧侶の資格を持っている人)がこの日のために、スケジュール調整をして3日間泊まり込みで修行します。
さすがに三日間もお寺を空けるわけにはいかないので、実際はほとんどの場合、坊守が留守番になります。
萬行寺もこの三日間は、葬式以外の全ての法務をお休みにし、4人揃って参加しました。

 去年までは佐世保にある別院で行われていましたが、今年から長崎と佐世保と交互でおこなうことになり、今年は教務所での開催になりました。

講師は去年に引き続き、大谷大学教授の延塚知道師です。
三年かかって『浄土論』と『浄土論註』を中心に講義があります。
今年の講題は『浄土論註と教行信証』でした。



長崎の安居はかつては、曽我量深、金子大栄などのそうそうたる先生方が講義をされたらしく、
昔から、一年のうちでも報恩講とともに大きな行事として位置づけられています。



朝のお勤め



二日目と三日目は楽入り法要。
お経があがりました。



今年は総勢4〜50名ほどでしょうか。例年よりも今年は、若手の僧分が多く参加していたようです。


永代経法要中です!

昨日から『永代経法要』がつとまっています。
永代経は、『浄土三部経』が読授される法要です。
昨日の日中は無量寿経、今日の日中は観無量寿経がつとまりました。明日は阿弥陀経です。
昨日の日中の法話は住職。夜から最終日まで岡本英夫先生です。


ps:住職はただいまパキスタン旅行レポートを執筆中。しばらくお待ちください。