長崎教区第1組/児童大会 in崎野自然公園 二日目

二日目は6時起床。
最初は元気いっぱいにラジオ体操です。

お勤めの後は武宮先生から法話がありました。
「思いやり」ということをお話しされました。
みんなよく聞いていました。

朝ご飯はご飯とみそ汁。昨日はだいぶ疲れたようで、朝のご飯があっという間になくなりました。

お昼までは遊びの時間です。草スキー場もありますし、アスレチックもあります。
遊ぶことには事欠かないところですね。



昼の食事はお好み焼きと焼きそばです。鉄板を用意してジュージューとセルフサービスで焼きながら食べます。最初は自分で出来なかったのですが、一回ひっくり返すことが出来たらどんどん自分でやって行きます。


お昼を食べたら解散です。


感想。
今年のキャンプは収穫があったように思います。お勤めもずいぶんと出来るようになったのではないでしょうか。
これまでの中では、少しばかりの進歩があったように見られます。
しかし、問題なのは、
わたくしたちは仏の子どもになります。
わたくしたちは正しい教えを聞きます。
わたくしたちはみんななかよくいたします。
このことを教学的な問題としてどのように子どもたちに伝えるかということは児童教化の根本的なテーマであることは昔から変わらないことではないかとやはり感じます。それだけに、キャンプの楽しさだけで終わってしまい、こどもたちの記憶には遊んだことだけしか記憶に残らないのも寂しく感じます。
それだけに児童教化は難しく、さらにわかり易く簡単に教えを伝えるということの難しさを感じます。

長崎教区第1組/児童大会 in崎野自然公園

 今日から明日まで、夏休み恒例、1組児童大会のキャンプです。
記録的な猛暑の中での今年のキャンプは、初めての場所ということもあって、熱中症や夜の気温などが気になります。水分をしっかり摂って寒い時には長袖もいることでしょう。そうなることやら。
今年は大人と子どもを含めると総勢90人と大人数のキャンプです。
参加したお寺の子どもたちは
照圓寺(清水町)
萬行寺(時津町)
圓滿寺(諫早市多良見)
照護寺(泉町)
光西寺(雲仙市愛野)
専念寺(南島原市有家)
西光寺(福田)
淨眞寺(水の浦)
善教寺(岩川町)
法生寺(緑町)です。
今回の開催場所は、時津町にある「崎野自然公園」です。ここでは初めてキャンプを行います。
まず、時津町にある萬行寺に集合。

読書お勤めの導師は萬行寺日曜学校のこどもたちです。
正信偈・和讃(同朋奉賛式)
<ちかいのことば>
わたくしたちは仏の子どもになります。
わたくしたちは正しいおしえをききます。
わたくしたちはみんななかよくいたします。

ここでレクリエーションや食事などの共同生活をする6つの班の班員を決めます。お互い初めて会う人もいますが子どもたちはすぐに仲良くなります。

移動後、開村式を行います。今回新調したご本尊が掲げられました。
明日までご本尊を中心とした生活がはじまります。

ご本尊の前でおつとめ。


そのあとは武宮創志先生のご法話がありました。


かき氷を作りました。これが大好評。




あっという間になくなりました。

その後、スタッフは食事の準備。各班の子どもたちが自分たちで食事をつくります。崎野公園には殆どの道具がそろっています。



その間に子どもたちはキャンプファイヤーの間に行う出し物。スタンツを各班考えてもらいます。

子どもたちを上手く乗せていい案を引き出します。ここではコミュニケーションを図るのが大事なのでしょう。班担当者の腕が試されます。




その間にスタッフは夕食の下ごしらえ。おおよその食事は子どもたちがつくりますが、時間の関係もあり、大人が下準備をしておきます。


これはスタッフ用のカレー




夜は恒例のキャンプファイヤー。これだけは昔から変わらないキャンプの定番。いわば風物詩です。
ファイヤーキーパーを務める組長が準備に追われています。



キャンプの定番!・・・といえば、カレーですね。90人分というとずいぶんな数です。


ごはんは飯盒で炊きます。
子どもたちは飯盒じたい初めて見るのでどうやって炊けるのか興味津々です。班に分かれて自分たちで炊事をします。上手く炊けるかな?

おおよその班が飯盒炊飯に不慣れななためにご飯に多少の焦付はあったものの、食べられないほどの失敗はありませんでした。
多少のおこげはキャンプならではの醍醐味です。
それでも、自分たちが炊いたご飯に子どもたちを楽しそうに平らげました。


日没後はいよいよメインイベント、キャンプファイヤーです。







長崎教区 仏教婦人会連盟50周年記念大会開催!!

真宗大谷派長崎教区の婦人会連盟は来年50周年をむかえます。


それを記念して2010年10月4日(月)長崎市民会館にて大会を行います。

開場12:00
開演12:30

講師は大谷大学教授の一楽真師です。
参加費は1,000円となっています。
ふるってご参加ください。

今月の遇願洞

今月から「門主制」について学んでいきます。
発表者は萬行寺若院の亀井攝、教区駐在教導の渋谷です。

門主制について学ぶことにはなっているのですが、一体どこから手をつけていいのか暗中模索の状態です。

長崎教区巡回子ども会 in海蔵寺

夏休みが始まり、子どもたちは待望の夏休みで解放感いっぱいです。

今日は、賑やかに日曜学校のこどもたちと野母崎までドライブ。
そうです今回巡回子ども会でおじゃまする長崎教区第1組 海蔵寺(ながさききょうくだいいっそ かいぞうじ)は野母崎の突端、海の見えるところにあります。
長崎教区の寺院一覧

今回でようやく8回目。予定している寺院を全部回ろうとすれば、二年ほどかかります。それでも毎回楽しみにくる子どももありますのでやっている回があるように思います。
少しずつではありますが、子どもの数も安定化してきました。今のところ極端に少ないということもありませんが、極端に多いということもありません。
地道に続けて行けばいいのではないでしょうか。面白いと思えば子どもたちは友達を連れていきたいと思うでしょうし、そうでなければ集まらないとも思います。
この事業は長崎教区の事業となっていますが、集まるおおよそのお寺の子どもたちが長崎市内の子どもたちなので、必然的に第一組の集まりのようになっています。
しかしそれも長崎市内の寺院には、幼稚園や保育園を運営している寺院が少ないこともあり、日曜学校や子供会などを行っていない寺院が多行ことも事実です。またはかつては行っていたけれども、辞めてしまったり、お休みにしたそのままになっているところもあるようです。そのようなことから長崎市内の寺院を中心に寺院を回って児童教化を行うことにしました。

ゆくゆくは他の地区のお寺にも伺って、子供会を開く予定もあります。また、学校が休みの期間に遠い寺院に足を伸ばしてみようかという話も出ています。





8月には時津の先野自然公園でキャンプがあります。それにあわせての歌の練習もしました。指導は和音先生です。





今日は海遊び。天気が良くて海の冷たさが気持ちいい。



大はしゃぎです。結局びしょぬれになってしまいました。



蓮如上人御命日/今月の遇願洞

毎月25日は蓮如上人の御命日で、和讃についての法話をおこなっています。役僧さんと若院で月交代で法話があがっています。和讃ときくと何やら難しいお話のように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
どうぞみなさんお気軽に御参詣ください。

今日の法話は、若院です。
和讃は
弥陀の大悲ふかければ
仏智不思議をあらわして
変成男子の願をたて
女人成仏ちかいたり

でした。




夕方6:00からは若手が中心の学習会、遇願洞(ぐがんどう)です。


お待ち受け大会の要であった愚願洞は、お待ち受け大会の実行委員会が発足し、大会が終わっても帰敬式のことを中心にずっと粘り強く真宗同朋会運動について学んでいます。

全く手のつけどころのない学習だと感じたこともありましたが、毎回いろんな人から意見が出てくるうちに少しずつではありますが、同朋会運動の問題点やなぜこの運動を展開することになったのかが自分たちが立っている状況から少しずつ見えてくるような気がしています。

集まってくるメンバーも固定的になって来ていますが、それでも集まってくる人それぞれが何か「このままでいいのか」という漠然とした不満や不安を抱えています。
一体それがなんなのかが解らないところがまたもどかしいのですが、それでも毎月教務所に集まって何か話すたびにそれぞれが現在の状態をどう捉えているのか解ってくるような気がします。

また、何が問題なのかが解らないということが「危機意識」であるにもかかわらず、そのことに関して意識が低いということも呆然とした不安の中に立たされ得ている原因ではないかと感じます。

真宗同朋会運動は宗門全体が時代の変化、それから宗門自体の失態や失政などから必然的に危機意識が高まって来たと言えるようですが、時代が変わって私たちの時代は危機意識が見えないという”漠然としている”という危機の中にいるようです。

長崎教区秋安居 今日で終了です。



長かったこの3日間も過ぎてしまえばあっという間です。

今回は聴講をなるべくしっかり聞こうとお酒も控えました。
それでも3日間座りっぱなしは体にこたえましたが、まじめに学習したと思います。

この安居は長崎教区の毎年の恒例行事になっています。
来年も池田先生にきたいただくことになっています。

長崎教区秋安居 中日

6:30 起床
    掃除
7:00 勤行
    法話
8:00 朝食
9:00 講義1

二日目の朝の講義は、


午後からは大衆供養。門徒さんもたくさん集まります。



総勢約60名の僧分による阿弥陀経の大合唱です。


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講義ノート(忘備録)

鵺、難思議往生道に立つ

必至滅土の願
難思議往生の願

真宗聖典p470
この阿弥陀如来の往相回向の選択本願をみたてまつるなり。これを難思議往生ともうす。これをこころえて他力には義なきを義とすとしるべし。


滅土に至ることを往生という
正定聚に住することを往生という
           →仏になれる身に定まるを「正定聚」というなり。『一念多念文意』

真宗聖典p235 
 「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」はうべきことを得たりという。真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。


救済=すくい→往生
自証=さとり→成仏

成仏・・・・因位=道程
  ・・・・到達面

不体失往生ーー念仏往生の機(正定聚)
体失往生ーーー第19願の往生の機

『2006年 安居講録』p103
五趣八難の迷いの道を超えるということが、即得往生である。そして住不退転ということは、必ず(中略)現生に十種の益を獲ることであると解釈せられたといっていい(中略)「即得往生、住不退転」ということを「横五趣八難の道」「必獲現生十種の益」とあらわされたのであります。


現在の往生の歩みが「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」真宗聖典p250となる。

仏教は「死後観」ではなく「死観」。私にとって「死」とはなにかと問うもの。「死観」がわかるから”生きる”ということが解る。
死んだらどうなるかをいわず。
死に様の善し悪しをいわず。
死に際の来迎をいわず。

(散)

長崎教区 秋安居開筵/あんごかいえん



今日から3日間佐世保別院に泊まり込んでの修行です。この修行は安居と呼ばれ、墨袈裟をかけて長崎教区内のほとんどの僧分が集まります。

講義は去年に引き続き池田勇諦師です。講題は「証文類に浄土真宗を学ぶ その2」となっていて、池田先生は3年間ご講師をお願いしています。今年は2年目になり、来年も引き続き来ていただくことになっています。




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<ウィキペディアより転載>
安居(あんご)は、それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること。及び、その期間の事を指す。
また、法臘は夏安居に参加するごとにひとつ増えるとされた。

<仏教界での用例>
安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳したものである。
本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事である。後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。
釈尊在世中より始められたとされ、その後、仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけでなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、その後の昇進の基準になるなど、非常に重要視された。
現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明け暮れる。

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 70年以上昔、西坂に長崎教務所があった時代です。夏になりますと、教区内の皆さんが集まって、暁烏先生、金子先生、曽我先生等、浩々洞(こうこうどう)の主力メンバーの方々においでいただいて、夏期講習会というのがあっていたようです。

長崎には、向学心のある先輩方が沢山おられ、寺も恵まれていた点もあったからでしょうか、浩々洞に学ばれた方がおられたようです。その様な方の力もあり、先ほどの先生方がおいでになっておられたようです。この伝統が受け継がれまして、今の筑後町の教務所に移りましてからも続けられ、柳行李を担いで、当時の方々は筑後町のあの石段を登って、その夏期講習会に来ておられました。その後、相変わらず浩々洞出身の先生方はおいでになって、私の記憶にありますのは、曽我先生が昭和45年までおいでになりまして、昭和46年に御遷化なさいました。その頃から、秋安居という名前で呼ぶようになりました。

 実は、安居というのは、本講の先生がおいでになってお話しするのが本当であるが、長崎の場合は、そういう先生方をお呼びせず、聴講したいと思う先生方においでいただいていたから、純粋な安居ではありません。本講の先生方を呼ぼうという声もありましたが、初心を忘れず、夏期講習会のスタイルをとっています。

長崎教区 子ども会巡回

長崎教区では、各月で長崎市内の真宗大谷派のお寺を巡回方式で子供会を開いています。どなたでも参加できます。どうぞお越し下さい。

今月の子ども会巡回は、長崎教区第1組・長崎市式見町にある浄満寺(じょうまんじ)で行いました。

このお寺は山門が新しくなりました。去年には住職さんも新しくなりました。

「住職一年生です。」のご挨拶。


お話は淨滿寺のご住職。『いのちのまつり―「ヌチヌグスージ」』という絵本を読み聞かせてくださいました。




「ぼうやにいのちをくれた人は誰ね〜?」
「それは・・・・お父さんとお母さん?」
「そうだねぇ。いのちをくれた人をご先祖さまって言うんだよ。」
「ねぇ、おばあさん。ぼくのご先祖さまって何人いるの?」
コウちゃんは指をおって数えてみることにしました。すると・・・・・。


みんな熱心に聞いていました。途中の飛び出す絵本のようにご先祖さんが増えていくところなんかは「うわ!すごい!」と素直な反応をしめしいていました。



お話のあとはちょっとしたゲームで遊んだあとは、本堂いっぱいの巨大双六をしました。前回もやってはみたものの「改良の余地あり」で再びリベンジしてみました。


今月の遇願洞

帰敬式実践運動伝達講習会にておこなわれた柘植闡英師の『帰敬式について―帰依三宝の行儀―』という講義録を輪読しました。


A>帰敬式を受式していただくために、門徒さんにはいろいろな話をする。しかしおおよその人は死んでからいただくものと受け手めている人がおおい。でもよくよく考えてみると、死後の名前でもいいんじゃないだろうかとふと思うこともある。浄土教は「死後往生」という概念もあるから、生きる苦しみを超えて浄土に生まれるのだから、そういう意味で言えば死後に法名をいただくということもあってもいいんじゃないだろうか。

B>「死後往生」「現生正定聚」ということについては、これまでずいぶん話してしたのできたけれど、そのこのところの扱いは非常に難しいと思う。

A>ん。そこまではあえてふれないとしても、帰敬式を薦めるとき、「法名は死んでからもらうのでは意味がない」とまではいわないけれど、それに近い言い方をしているように思う。そう聞いて生前にご縁のなかった人を送る遺族の気持ちはどうだろうかと思う。もちろん基本は生きているうちにいただくものだけれど、これまで自分は「生きる意味」とか「生きる」ということを闇雲に強調してきた。しかし、よく考えてみると「死後の往生」ということが頭の片隅にないままに話していたように思う。おおよその人が法名は死後の名前と思っている人が多いのだから、なおさらそのことはある意味で重要なポイントかもしれない。そうでなければある意味現世利益を説く典型的な現代の新興宗教と変わらないような気がするのだけれど、このことはどうだろうか。

C>あえて現世利益を強調する必要はないけれども、利益という意味では、もっと堂々と現世利益を語っていいんじゃないかと思う。現世利益和讃ということもちゃんと親鸞聖人はかいているのだから。そこで帰敬式を受式するご縁になって出発点になるならそれでいいと思う。もっと堂々と語っていいと思う。

A>もちろん曽我先生が言われているように、「信心のないものは浄土には往生できない」ということを忘れて死後往生を取り沙汰するならば、その時にいう現世利益は現生正定聚や真宗の教えとは違ったものになるだろうと思う。でも、それ以前に、もっと単純な問題として法名が死後の名前と思い込んで疑う余地のない人に、生きているうちに法名をいただきましょうということをどうやって伝えていったらいいんだろうか。

C>だから、そこのところは現世利益和讃に書いてあるようなことをいえばいいんじゃないだろうか。しかもそれをおそれずに言わなきゃね。

B>柘植闡英師のテキストには、教行信証の化身土の巻は親鸞聖人の教えを詳しく知らない人や迷信といったものに夢中になっている人たちが真宗の教えに興味を持ってもらうための聖人の親切だと書いているけれど、そう思う。だから、だからいきなり頭ごなしに「それは間違っている」「それはだめだ」などと言ってはいない。

E>もう一つは、「おそれずにいうという」ということなら、逆に新興宗教と呼ばれる人たちは堂々としてる。良いとか悪いとかは度返しにして、自分の信じることを伝えようとしている気持ちはぼくらよりも強いかもしれない。そういう意味では真宗の坊主なら真実の教えと親鸞聖人が言われているのだから、もっと自信を持って語るべきだと思う。


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E>遇願洞で真宗同朋会運動を学習しようということだけれど、自分たちは本当に同朋会運動を学ぶつもりがあるのかと思う。実際、おそろしい運動だとおもう。だって、真宗のお坊さんって言っていることとやっていることがバラバラじゃないだろうか。偉そうに言ってるけれど、自分も含めてよくこれだけのことが言えるなと思うことを平気で語ってたりする。そういう悪いところも良いところも全て表に曝け出して、みんなで考えようって言うのだから、とてもおそろしいよね。










同朋会運動50周年記念シンポジウム

今日は『同朋会運動50周年記念シンポジウム』です。
約50年前、宗門は戦後復興のなかで、今や体質化した封建体制から抜け出す試みがなされました。
この運動は今でも賛否両論ありますが、それまでの宗門の封建的体制や宗門の戦争責任問題など様々な問題を抱えながら、それらを真剣に考えなければ親鸞聖人の教えは廃れてしまうだろうという機具のもと始まりました。

来年、大谷派では宗祖親鸞聖人の750回忌を迎えます。その翌年がちょうど同朋会運動の50年にあたり、大谷派内の各教区などでも様々な取り組みがされることだろうと思います。

長崎教区でもこれまでの歩みと、総括がされる時ではないかということで、教区内のベテランがそろい、これまでの同朋会運動の流れをシンポジウム形式で語っていただきました。