報恩講 中日  25日

一週間の報恩講もようやく折り返し、今日は中日です。

寒くはありますが天気もよく参詣はまずまず。

しかし年々深刻な減少傾向が続き、ここ何年かで目に見える形で加速度的に進んでいます。先刻のお寺が様々な状況で同じ悩みを抱えているのは言うまでもないことなのでしょう。

そんな中でも、関心の深いご門徒さんは熱心に通われます。ありがたいことです。

 真宗門徒としては報恩講が一番大切にされてきた法要です。この一年で一番寒い時期に勤められる法要だけに、参詣の足も遠のくのも無理はないかと思います。しかし、これまで必ずお寺の法要に参詣を続けてこられたご門徒の数は平行線を保っているようです。お寺との関係が代々続いている家庭もありますし、新たに足を運ぶようになった方もおられます。ありがたいことです。よくよく考えれば、今の時代に一週間の法要にこれだけの参詣があるのもうれしく思います。

法要の心得として、『初・中・結』といわれています。「初・中・結」とは、初日と中日と結願(最終日)のことで、一番肝要で法王の儀式も重いものです。参詣されるご門徒の多くがリピーターで、その中の多くは初・中・結には参詣される方が多いようです。ちゃんと調べたわけではありませんが、顔ぶれを見るとそのように思います。

 

逮夜には御伝鈔拝読と絵解きがあります。始まりは7時半から始まり、終了は通常よりやや長くなって9:30の予定です。

今年の御伝鈔は下巻を拝読。聖人が越後に配流となり、そこで出逢った人々との触れ合いや様々なエピソードが語られます。その後、聖人ご往生後の本願寺の興隆までが語られています。今回はあらすじとタイトルを挿入したプロジェクターを導入して、参詣者が聞きながらおおよそのどのようなシーンなのかを考えながら理解できるように工夫をしてみました。

そのあとは内陣余間にて御伝鈔の絵解きが行われます。お話は役僧さんの三澤師です。

 

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報恩講 3日目 24日

P1231351.jpg  まだ序の口ですが早くも少々疲れ気味。

 気合いを入れ直していきます。

 寒さは相変わらずで、準備期間を入れると今日で10日目。

 浄土真宗の要である三心「至心・信楽・欲生」という大事なところを解り易く丁寧 に詳しくお話くださっています。難しい仏法の言葉を易く説くにはそうとうの力量 がいるとおもいます。まして三心「至心・信楽・欲生」の浄土真宗の要の教えはを お話するのにはハードルが高いと感じている私にとっては、なんともありがたいお 話です。


  真実の教えに遇うとは、私を救おうとする如来のお心に出遇うということです。▶️私たちは真実の心でもって、道を歩むことが救いなのですが、実は我々人間には真実の心はありません。しかも真実を受け止ようとする心も持ち合わせていないんです。さらに真実を真実としてみることのできる心も持ち合わせてうないんです。そのような自分には気づかないままでいるので、いつでも自分の心は真実だと思って疑わないんです。このような心の状態を一つの例えとして言えば、「これが真実というものです」と仏さまの方から近寄ってきたとしても「私にはもうすでに真実の心を持っているからいらないよ。」と断わるようなものです。

だから我々人間は自分を真実に向けることが出来ないのです。仏さまはそのような私たちの我の心で一杯の有様をよくよく見抜き、その我の心で一杯の私のこころを克服させる用きを与えてくださるのです。それが『至心・信 楽・欲生』という三つの仏さまの心なのです。

「至心」は不実さを受け止めない心を受け止めさせる心。

「信楽」は真実をそのまま受け止められる心へ転じさせる心。

「欲生」は真実に目覚めたいという心へ転じさせる仏さまの心。

▶️真実は不実なものを見けると、必ずはたらきかけ、そのものを真実に目覚めさせるようはたらくのです。そういうものものを「真実」というのです。ですから、仏さまは我の心で満ちた私の心を照らしだす「光」と表現されているのです。

 

 

報恩講 初日。始まりました!

初日はやっぱり緊張します。

この緊張感がいいですね。

初日は参詣の人も新鮮な気持ちでお参りされてるようです。

法要は晨朝(お朝事)から始まります。

 

日中は登高座があって報恩講式という覚如上人が書かれた報恩講のための表白文が読まれます。これまた格調高く、当時の本願寺がどのように報恩講をお勤めしていたのかがうかがえるように思います。

親鸞聖人とは、我々真宗門徒にとってどのような存在であるのかが明確に記されています。

この報恩講式は、当時の衰退していた本願寺をなんとか立て直そうと立ち上がった覚如上人の覚悟の一端を見ることができます。今となっては本願寺の聖人といわれていることが批判されることもありますが、今日の真宗の教えが蓮如上人を生み出し、ここまで広がったことを考えると批判だするだけではすまないこともあるように思います。歴史の一端としてみるならば、そのようなことも見据えた上での本願寺の歴史なのでしょか。


 

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報恩講準備 いよいよ大詰め!!

今日から準備の本丸に取り掛かります。いよいよ浜田郷と浦郷の総勢60名での餅つきとお華束(おけそく)作りが朝早くから始まりました。

まず餅を蒸籠で蒸します。すべて蒸すと3斗7升。

 

楽をしてはいけません。苦しみます。

大変なことは、大切なこと。

大変さや苦労が人を育てる。

 

 餅つきやお華束は、あえて昔ながらの製法で行います。集まっていただくご門徒さん方にはいつもお世話いただいてます。

これだけの人の手によって親鸞聖人の御仏事をお勤めするのは大変なことです。

その大変なことの中に御恩を見出すのが真宗門徒のこころではないかとも感じます。

 現代はなんでも機械化や人の手を借りなくとも楽に何でもできる時代だけに人々がつながりを失っている時代ともいわれています。しかし、お寺というところは人々の支えがなければ成り立たない場所です。餅つきや仏具のお磨き一つをとっても「機械で磨けばいいのではないですか」とか「今は昔とは違って餅は食べなくなったので、こんなに沢山餅をついても、家には家族が少ないしほかに食べるものがあって喜んで餅を食べる人もいない」とか「お餅の飾りもブロックみたいな積み重ねる道具があるから、それを使えばこんな大変なことをしなくともいいんじゃないですか」という意見をいただくこともあります。

しかし、それをしてしまうとお寺に集まるキッカケがなくなってしまいます。

これがなくなればお寺で法要が勤まることも知らない人が増えますし、自分たちのお寺であるという気概もなくなっていきます。ただでさえ衰退のしつつある時代にお寺が便利さや快適さだけを求めると、つながりが切れていきます。

 

 

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蒸した餅を棒で伸ばします。餅がさめる前に素早く伸ばさないと伸ばしてもすぐ元の形に戻ってしまい、均等に伸ばすことができなくなります。まさにスピード勝負です。見ているよりも案外に大変です。

 

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棒で伸ばした餅を40人くらいで大小合わせて5700個ほどくりぬいていきます。これでも内陣の荘厳の関係で随分と最近は数は少なくなりました。かつてはお華束の数がもっと多かったですから、以前より1000個ほど減っているのではないでしょうか。

ここではかなりシステマチックで誰でもできるようになっています。

 

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お華束つくりは、それぞれのお寺で様々な方法で作られているようですが、萬行寺の方法ではくり抜く分、無駄も多くでます。しかし、正確さと効率を考えるとこの方法が一番いいようです。それぞれの道具はご門徒の家具職人さんが作ってくださいました。これらはお寺の大切な財産です。

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一つ一つ串にさしていきます。報恩講は通常の作法では「須弥盛り華束」が基本ですが、ここでは「杉盛り華束」を作ります。

 

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おおよそ形が出来上がりました。

餅が乾燥する前に手早く刺していかなければ、形を整えるのが大変になってきます。

かといって、早く刺しても柔らかい分、串に刺した餅が重みで下がってしまい隙間が空いたりします。タイミングと速さが勝負です。また、その日の温度なども出来栄えにかかわってきます。

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みかんの産地、長与町の塩床から毎年みかんを志でいただき盛ります。形は完成。あとは色付けをします。

 

 

 

報恩講準備初日

報恩講の準備が本格的に始まります。初日は各地区の講頭(こうがしら)と呼ばれる地区の役員が集まり、報恩講をお勤めするにあたり、諸役や当番などの確認事項を行い、案内状を配っていただきます。

今日は互礼会。新年の初顔合わせということもあり、一杯飲みながら語りあいます。
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報恩講は親鸞聖人の祥月命日を機縁として浄土真宗に出遇う御仏事ですが、私たちにとって親鸞聖人という存在はどのようなものであるのか、または親鸞聖人のご一生が、現代を生きる我々にとってどのような意味を持つのでしょうか。その問いを訪ね、浄土真宗に真向かいになる仏事出ると言えるのではないかと思います。

法要はお寺で勤めてお寺でするもの。あるいはお寺の人がご門徒に案内して行うものというイメージがある人もあるかもしれません。

しかし、真宗の仏事は「報恩」という精神で持って勤められ、そこに関係する一人ひとりが私にかけられた恩に報いていくものが仏事なのです。そう考えると、報恩講は自分たち門徒一人ひとりが報恩講をつとめるということであるということに他なりません。つまり、そこに所属するすべての門徒やその過程を構成する一人ひとりがこの一週間を報恩の仏事として生活することを報恩講というのだと言えるのではないでしょうか。そのことから自分の所属しているお寺の報恩講が勤まる時、家庭に打敷をかけて五具足の荘厳をするのが正式であると言えます。

荘厳やもろもろの作法は、教えが形となったものであり、形として現れた教えであるとも言えます。そういうことから考えてみると、仏事をお勤めするときの作法にかなった荘厳は、私たちに大切なことを教えてくださいます。

これから、門徒と一緒に報恩講をお勤めいたしますが、この仏事が「一人(いちにん)の報恩講である」とともに、報恩ということを深く等ご縁となればいいのではなかと感じています。