永代経法要二日目

法話は日中・逮夜ともに漢忠夫師。

今日は観無量寿経が読誦されました。

法話は昨日に引き続き日中・逮夜とも『為永代先祖供養読経/永代の先祖の供養の為に経を読む』ということについて、角度を変え、視点を変えてお話がありました。

私たちの日常は苦しい時には苦しいだけであり、悲しいときには、ただ悲しいだけ。
そう言う人生の歩みの中で、真実の教えに出遇うチャンスは、この度人間に生まれた一度しかない。
そう三帰依文には書かれています。
その稀なる縁を受けながらも、わたしたちは日常の暮らしに埋没してしまい、生きることの本質や現実を履き違える。

そこには、人間として今を生きているという大切な自分を見失っっているといっていいでしょう。

永代経法要がいよいよスタート!

日中は住職。
逮夜からご満座までは福岡・前原の光明寺住職・漢忠夫師のお話です。

今回は『為永代先祖供養読経/永代の先祖の供養の為に経を読む』とはどういうことなのか、というお話がありました。

彼岸の準備/発送作業



きょうは萬行寺の全門徒に彼岸法要あんないを発送する作業をします。

彼岸法要の様子








20日日中〜24日日中までの5日間彼岸会が勤まりました。
今回の講師は、20日 日中/逮夜:萬行寺住職。
       21日・22日・23日 日中/逮夜ともに、久留米教区 瀬高の法讃住職:坂田智亮師
       23日 日中:萬行寺住職/逮夜:萬行寺若院
       24日 日中:萬行寺住職

という日程で、法要が厳修されました。
坂田師は、「人間とはなにか」とういうことを中心に、「人間をして、人間たらしめんという本願のいのりに帰れ」というテーマでお話しされました。
人間とは根源的に弥陀の浄土を求めている。
そういう根源に必ず引き戻される地点に、人間が人間たらしめる所以がある。
そこからしか人として生きている自分というものは見えてこない。
阿弥陀の摂取不捨の願いは真実であるが故に、我々に有無をいわさない。
だからこそ、誰もが平等に頷けるもの。
その本願のいのりに帰る。

ということを話されました。

今回の法座は一貫した視点が見えてとても面白い法座ではなかったかと思います。


     若院:大攝

作上がり法要

二日間の法要が終わりました。
地域によっては虫供養と呼び習わしているところもあるそうです。農業をするということは、たくさんの虫たちを殺して生きざるをえないことからそう呼ばれているそうです。
萬行寺の場合は、今はほとんど農業で生業を立てている家庭が少なくなりましたが、昔からの習慣で「作上がり」と呼んできました。作付けがおわって時間ができたから、お寺に参ろうという習慣からそうよばれています。





お寺の法要が終わると、町では海や土の神への奉納のお祭りとして始まった「ペーロン」と呼ばれるボートレースが行われます。


今となっては町には漁業家もいなくなり、農業をする家も少なくなり、海や土に感謝する習慣自体もなくなりつつありますが、今ではイベントという形で残っているようです。
しかし、その由来、謂(いわ)れを知って行っている人は少ないように思います。




ところで、今回の法要は「正信偈」についてでした。念仏の謂れを聞くということ、なぜ仏が我々に願っているのか、何を私たちに願っているのか、なぜあ南無阿弥陀仏と称えるのか、阿弥陀仏とは何か、その謂れを聞くことが”要”であると話されました。





彼岸会レポート =3日日=

今日は雨。
雨になると畑仕事が出来ないために参詣が多くなります。
雨といってもいうほどは寒くない。
ストーブがもういらない季節になって来ました。北国はまだ寒いとは思いますが、長崎はもう春の気配がしています。
今年の桜は去年に比べて咲くのが遅くなりそうです。

法話は昨日に引き続き岡本英夫師です。
岡本師の今回の法話は『仏説観無量寿経』の後半にある観音観・勢至観を中心に、智慧と慈悲についてのお話です。
内容は難しくはありますが、なぜ真実に出遇うことによって人間は救われていくのかということを、一つ一つのことばを丁寧に解説しながら、お話しされました。

<覚え書き>

観世音菩薩=日天子(にってんし)無明の闇を払いのける。衆生の苦悩の声を聞く、世の人をみそなわす菩薩。
大勢至菩薩=月天子(がってんし)生死の長夜を照らし智慧を開かしめる菩薩。

稽首を蒙る(こうべをこうむる)というという言葉を親鸞聖人は”コウベヲツク”と読んだ。この表現は韋提希がはじめて頭が下がったという表現として宗祖が読み取ったということ。

仏の智慧はここまでということがない。私たちはここまでが自分と決めつけてしまう。「こんなもんだ」と自分を納得させて納得させる。しかし、仏の智慧はここまでということがないからいつでも自分が思う以上の自分を照らしている。
それが私たちにとっては不都合。
その自分を在りのままの相であるみとめようとしない。

如来はじっとしていない。常に動いている。
如来という言葉は名詞ではない。

智慧が慈悲となって用らき、慈悲は智慧となって用らかないと救いは成就しない。

彼岸会レポート =2日日=

     <<彼岸の荘厳>>

三具足を置いた上卓と前卓に打敷きをします。
前卓は下に水引をひき、その上に打敷きをしきます。
灯明は平常時には輪灯に灯明をともしますが、彼岸の場合はロウソクと灯明に灯をともします。


今日の参詣は、昨日より若干多かったようです。

法話は日中は住職。逮夜から結願までは岡本英夫師です。


彼岸会レポート =初日=

萬行寺の彼岸会は、一年を通して、報恩講をのぞき、最も参詣者が多い法要です。
 春という時期は子どもの卒業や入学、引っ越や転勤、それからこの時期になると体調を崩す人もいるようで、秋の彼岸よりは若干参詣が少ないようです。


 かつては本堂に入りきれないほどの参詣人でごった返した時代もあったそうですが、そういった時代よりも色々な面で便利になった分、参詣者は減っているようです。
便利になるということも一長一短です。

 ご年配の方が昔を振り返っていう時によく云われるのが、「昔は遊ぶといっても、この辺は田舎だったから何にもなかった。唯一お寺に行くのだけが楽しみだった。」というはなしはよく聞きます。

 昔より遥かに便利になった分、仏法から遠ざかっている印象を受けるこの現代社会とは、一体どういう時代なのでしょうか。

 ここのところ話題になっているチベットでの暴動でも、その国にもとからあった良きチベット文化や伝統がなくなることに危機感を感じての行動ではないかと報道されています。
そのことから色々考えると、萬行寺を取り巻く状況も、あながちそういった良き文化、良き伝統関係がないとはいえないようです。

 無論、伝統や文化には善し悪しがあります。
しかし、人には欲というものがありますから、大概の場合、気持ちが楽な方ヘ楽な方へと気が向きがちです。
 自己を問うといった最も人生にとってせねばならないことがおざなりになり、不実な自己を正当化する文化や伝統がもてはやされていきがちです。
そういった意味では、お寺で聞法修行し、その伝統を相続していくということはとても大事なことだとおもいます。
まさに『彼岸』ということばが修行を完成させるという意味、paramitaというサンスクリットの言葉ですから、お寺に参詣するということはとても功徳のあることだと思います。

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初日から二日目の日中までの法話は住職。
二日間のお話は、念仏者の生き方とは一体どういうものか、念仏して生きるとはどういうことかということを善導大師の『観経疎』の中にある『二河白道の譬え』(真宗聖典p219)に依ってのはなしです。

今日は、その中に出てくる群賊悪獣とは、我々にとってどういうものかということ、愛欲・瞋恚の二つの河とは一体どういう河なのか。ということが話されました。

  聞き耳を立てる 参詣には大谷声明集↓     真宗聖典をご持参ください。↓
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彼岸会レポート =2日日=

聞き耳を立てる<<彼岸の荘厳>>

彼岸中の各家庭での荘厳は、水引と打ち敷きを敷きます。
平常時は蝋燭ではなく輪灯(りんとう)にあかりを灯しますが、彼岸の場合は、輪灯と燭台火を灯します。

お供えは、餅からくがんを供華(くげ)に入れて供えます。



二日目。
昨日に比べて参詣は多いようです。
法話は昨日に引き続き、『二河白道の譬』です。

修正会/しゅうしょうえ

今日は朝7時から修正会でした。
日本人の典型的な元旦行事は初詣ですが、仏教徒ならばまずはお寺に行きましょう。

今年初めてのお勤めです。
一年のうちで1月1日の朝だけ休みました。
2日からいつものとおりです。

今日は朝早くにかかわらず、結構な人数が集まりました。

今年最後のご命日 ~毎年の風景2



いよいよ今年も終わりです。
今日は今年最後の親鸞聖人のご命日です。
最後とあってか参詣が多いような気がしました。



これで、月忌参りはおしまい。
役僧さんはお休みに入ります。


夕方からは職人さんとの忘年会です。今日一日はとにかく賑やかな一日でした。




我が家のアイドル、沙樹と真歩です。





それから、今年の除夜の鐘はお休みします。

永代経法要 終了

永代経法要が終わりました。
今回は、久しぶりに見る顔もちらほら見かけました。

昨日の逮夜で武宮勲師の法話は終わり、今日の日中の法話は住職でした。

1

武宮師の話は、ゆったりと穏やかな話口調で聞きやすいという評判だったようです。

 永代経法要とは、教えを永代にわたって相続する。つまり我々は後に続くもののために“道”を造りをする。
そのためにお寺に足を運ぶ。

 そのためには先祖から伝わってきた真実の教えに、まずわれわれが出遇うこと。
そして、その教えを後に続く者にも出遇っていってほしいというメッセージを残す。これが「道を造る」ということ。


 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。

            教行信証(化身土巻・末)=真宗聖典P401=



2

これで今年行う法要は定例を残して終わりました。
次の法要は、来年の1月の「報恩講」です。



午後からは、永代収骨廟の落慶をしました。