福浄寺壮年会との交流

萬行寺の壮年会『白道会』は、去年から川棚にある福淨寺の壮年会『いしんかい』との交流をはじめました。去年は福淨寺さんからのお招きを受けたので、今年は萬行寺が福淨寺さんを招くことになりました。
福浄寺と萬行寺は、深い因縁があります。
萬行寺の1664年(寛文4)11月22日に萬行寺開基である 法名釈道夢法師:俗名御厨左馬之助は福浄寺開基の弟という記述がのこされています。さらに第三世住職の了閑(りょうかん)は福浄寺二世を相続し、引退後萬行寺の住職となっています。現在、了閑の遺骨は萬行寺の歴代住職の墓の中に埋葬されています。萬行寺の亀井家と福成寺の深草家とは同じ”平戸梶”という家紋であることからもわかるように、因縁の深いいきさつがあります。

了閑が萬行寺の三世に就任する頃まで萬行寺は現在地より200メートルほど離れた字小嶋というところに小さな草庵を建てて門徒教化を行っていました。その字小嶋にあった草庵を、現在地の亀水山(きすいざん)に移し現在の本堂・庫裡を新築したといわれています。(元々この場所は六屋敷(むつやしき)と呼ばれ、6件の武家か庄屋のような者の屋敷があったといわれています。)
今現在建っている本堂は1978(昭和53)に改築し、翌1979(昭和54)の4月に本堂落慶を行いました。それまで300年近く当時の本堂がそのまま使われていたとそうです。

まぁ、そのようなことは遠い昔の話であることは確かですが、しかしそれでだけでも福浄寺さんとはなにか特別な感じがするのは私だけではないと思います。


まずは何はともあれ正信偈でのお勤め。


白道会の会長岩崎さんの挨拶


まず最初は福浄寺の住職のお話です。


その後は萬行寺の住職のお話。

その後は二班に分かれての交流会。





どちらも盛り上がって盛んな意見交換が行われました。


そのあとは両門徒入り乱れての酒盛り。念仏談義に花が咲きました。「他人の芝生はよく見える」と言いますが、福浄寺の門徒さんは”さすがだな”という印象を持ちました。

御文会



今日は御文会(おふみかい)がありました。今年も去年に引き続き左底の講の会に参加しました。
御文会は、この時期になると各地域の講で毎年行われるもので、蓮如上人が書かれた御文ををみんなで読みます。この伝統は萬行寺のほとんどの講で行われて、地域によっては、時間で区切って終わりにするところもあります。
中には一日中がかりですべて読破する講もあります。



そのおかげでカタカナ本の古い文体の文章をすらすらと読めるようになります。
今では学校でも教えることのなくなった文章や、仏教の専門用語もたくさん出てきます。
しかし、それでもみんなで声を出して読むうちに、仏教独特の読み癖などや読み方もだんだんと解ってきます。
読めるようになれば、その味わいもなかなかなものです。
長く読み続けた人のなかには、現代語訳されたものよりも昔の文体の方がありがたいという人もいますし、その方が読みやすいと言われる人もいます。

中には明治時代から受け継がれている古い御文をもってくる人もいました。

蓮如上人御命日/定例法座

毎月25日は蓮如上人・法然上人の御命日です。
萬行寺では毎月定例法座が朝の10時から勤まっています。
25日は和讃をわかりやすく読み解きながらの法話をおこなっています。
なるべく皆さんの分かりやすいように話をいたしております。
どうぞお参りください。

和讃とは、お勤めで読まれる七五調の和歌です。
一般的にお寺や各家庭のお内仏でお坊さんが読まれる漢文の文章のことを全て”お経”と呼ぶことが多いようですが、実は細かく分類があります。
和讃は、和歌形式になっていて、それに節がついていますので、歌になっています。

お経の場合は全て「仏説」という言葉が表題にきます。これはお釈迦様の説法であることを意味し、必ず誰かの翻訳文であることが明記されています。
ですから外国の国の言葉なのです。そういう意味ではそれを聞いて何を言っているのかわからないのは無理もない話だと思います。
読み方はすべて節がなく、ずらずらと棒読みをします。

和讃の場合は著者が親鸞聖人、それに安土桃山時代になって本願寺の18代目の蓮如上人の時代にその時代の流行歌の調子に合わせて作り替えられ、「正信念仏偈」とともに「三帖和讃」が開版され、門徒の朝夕の勤行に用いられるようになりました。そうして現在に至っています。真宗大谷派では伝統的にその時代のものをそのまま伝承されています。

このおつとめは日本の伝統的な形式のものを踏襲していますが、当時の芸能の影響も受けているともいわれています。

宗教には必ず、その宗教施設で行われる儀式に神や仏をなど讃える歌があります。これは世界中のどの宗教にも共通したもので、この「和讃」ももれなくその形式を踏襲しています。
いわば、真宗の賛美歌ともいえるでしょう。わたしたちは新しいものに関心を持つことが多いですが、このような古いものに新鮮さを覚えることも大事だと思います。
古来から日本人はこのようなものを聞いて来たのだということも大事な学習の一つだろうと思います。

この和讃は正確には「三帖和讃【さんじょうわさん】」といわれ、親鸞聖人の著作で、『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』の三編に分かれていて、それぞれが浄土教の歴史や、それを伝えた高僧の物語や浄土の様子を歌ったものがあります。
これは親鸞聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という難しい書物をもう少しわかりやすくまとめたものです。ひらがなを用いて読みやすくされたものです。


親鸞聖人は、晩年まで加筆、再訂したといわれています。真跡本は、完全なものは発見されておらず。三重県の高田派の専修寺にある「国宝本」に一部が真跡と認められるだけです。
書写本は数多く残っていて書写する際に加筆・再訂され、和讃数や順序などが写本により異なっています。

『浄土和讃(じょうどわさん)』
宝治2年(1248年)頃の著作と言われる。「三帖和讃」の一つ。118首の和讃からなる。

『高僧和讃(こうそうわさん)』
『浄土和讃』と同じく宝治2年(1248年)頃の著作と言われる。『浄土高僧和讃』とも言う。三帖和讃の一つ。親鸞聖人が選定した「七高僧」を讃える119首の和讃からなる。

『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』
正嘉元年(1257年)頃の著作と言われる。三帖和讃の一つ。全部で116首の和讃からなる。

大掃除

今日は毎年恒例の大掃除です。
毎年浦郷の門徒がやってきて境内中を綺麗にします。


伝統的に報恩講はそれぞれの地域に役割があります。
浦郷はお華束(おけそく/=もちかざり)と大掃除の担当です。
萬行寺に一番近い浜田はその機動力を活かして、三千近くある餅を丸める係です。
一番遠い日並郷はお斎に出す野菜を届けてくれます。
各地域で回り持ちのはお磨き(=仏具を磨く)です。

一年のうちに溜まった汚れを綺麗に落として、新年を迎えます。

萬行寺での結婚式

今日は若院さんの結婚式です。
前日からの雨で当日の天気が心配でしたが、見事に晴れて気温もそれほど上がらず、いい天気でした。そのために本堂の戸を開け放して式は行われました。

司婚は専修学院委員長、狐野秀存師によって執り行われました。

建家祝い

基礎工事も終わり、いよいよ柱が立ち始めました。
これからが
大工さんの腕の見せ所です。こういった木組みだけの家を建てるのは久しぶりで勘が少々鈍ってしまっているらしいのですが、それでも楽しそうにやっている様子です。

今日は建ち家でお祝いがあります。
職人さんが大勢詰めかけます。




重い木材はクレーンで上げてもらいます。
二階建て用の木材を運ぶにしては少々大きなクレーンです。
これはいつもお世話になっている浅山さんの大型クレーンです。
境内の木を剪定する時にも大活躍しました。



黙々と仕事が進んでいます。


 臍(ほぞ)に差し込み、抜けないように込み栓(こみせん)で固定します。込み栓は樫の木で出来ていて固いので腐りにくく湿気などによる収縮が少なく、狂いがありませんし丈夫なのです。
これが長い間培われた昔ながらの工法で、日本という風土に適した木造建築には、この方法が一番長持ちするそうです。



最近では地震対策も相まって、柱を金具で固定しビス止めすることが建築法で義務付けられているそうですが、木組みだけの工法で建てる家はそれに比べると手続きもお金も手間もかかるようです。
壁は土壁で通称『桟/えつり』と呼ばれています。これは、かや葺(ぶ)き・わら葺き屋根や土蔵の壁の下地材。ヨシや細い竹・板を縄で簀(す)のように編んだものだそうで、これも湿気や熱にも強く、夏は涼しく冬は暖かい勝れたもので、これを暑くすると土蔵作りになったりします。耐熱性にも勝れていて、現在の耐熱ボードよりももつのだそうです。
しかもエコで、なにより科学物質を含んでいないので安全で、かえって重量があるために耐震にもすぐれているようです。







釘は経年変化で木の湿気などで錆びます。それから木のゆがみや季節の変化に応じて木が収縮するのでその変化に釘なりに馴染んで粘りがあるそうですが、ビスは鋳物である方向にテンションが掛かると簡単にねじ切れてしまいます。その点、釘の方が強いのですがやはり違う性質の物を打ち込むという事に無理があるのでしょう。
やはり木同士でつなぐのが限りなく一本の樹に近い状態で組めるのでいいのだそうです。






夜はお祝い。沢山の料理がでて遅くまで賑やかな声が聞こえていました。

工事が始まりました。

離れの建設が始まっています。
萬行寺図書室の予定ですが、一部は若院の新居にもなっています。

ここには10年ほど前まで同じ場所に古びた納屋が建っていました。
以前はここに納屋があってその横に小さな部屋に、昔でいう「寺男/てらおとこ」のおじいさんが住んでいました。
そのおじいさんは前々坊守について萬行寺にやってきて一生を終えました。
小学校もまともに出ていませんでしたが読み書きや算数もここで習い、聖教のことばも沢山丸暗記していました。
いくつもの手帳を持ち歩いては気がついた時に短歌や和歌などを書き付けていました。
昔気質で何一ついわれたことには「はい」とだけ答えて黙々と与えられて仕事をする人だったと記憶しています。
そのおじいさんが亡くなり、その小屋を取壊して離れを建設することにしました。

当時建っていた納屋は土壁ですので土蔵創りのように頑丈で、小さな窓がいくつかありほとんど壁でしたが夏は涼しく、冬は暖かい家で夏に入るとヒンヤリしていたのを覚えています。その記憶もあってか土壁の家はいいなと思っています。土壁は再利用もでき、中に編み込まれた藁縄やた竹はまた使えさらに耐久性も増すそうです。リサイクルにもなるしエコも達成できます。しかし、今日の建築事情は土壁や木組みの家は贅沢品らしく、職人もあまりいないということもあり、予算も日数もずいぶんかかるそうです。

新しく建つ離れも土壁にしますが、なかなかかかりそうです。



基礎工事の様子




山号額の修復をしました。

前の本堂に掛かっていた『亀水精舎/きすいしょうじゃ』と書かれた山号額が長い間行方不明になっていました。
今年、報恩講の準備中にようやく見つかり拍手修復することが決まりました。



ずいぶん痛みが激しいです。


ヒビがずいぶん入っています。

30年前に本堂を再建した後もかけていましたが、台風の強風によって飛ばされて落ちてしまいました。その後、痛みが激しいので、塗装を剥いだままにしていましたが、いつの間にか行方不明になっていました。

=====山号額の歴史的経緯とその時代=========

 この山号額のことは詳しいことは現在わかっていません。しかし、ここから約700メーターほどはなれた長与町にある法妙寺さん(日蓮宗)にも同じ人が書いたと思われる『法妙精舎/ほうみょうしょうじゃ』という山号額が掛かっていることから推測しても、どうも江戸の初期頃に大村藩から寄贈されたものではないかとおもっています。

キリシタン大名と呼ばれた大村純忠は、キリスト教に改宗後各地の寺院を焼き払い教会を建てました。それから長崎はローマに寄進され、事実上キリスト教の地になりました。
その後、禁教令がしかれ大村藩は日蓮宗に改宗し藩内に寺院が建てられ、このころに藩内の町や村の造成が勧められたと云われています。

 現在、大村領内には法華十カ寺と真宗十カ寺という寺院があります。法華十カ寺の本寺である、大村の本教寺は藩主の菩提寺であり、檀家数も非常に多く大寺院で、それに末寺である9か寺も真宗の寺院に比べると非常に規模が大きいものばかりです。一方、真宗の寺院は規制事項が多く、日蓮宗の寺院より大きい伽藍は建てることが禁じられたり、山門などの権力を象徴するようなものは固く禁止されていたようです。
 法華十カ寺が出来た後、大村の正法寺を本寺として真宗のお寺が十カ寺建てられました。その内の一つが萬行寺です。
そのような経緯から時津町・長与町の門徒や檀家の分布をみると、昔からの氏族や武家などが日蓮宗、その他の移住者や農業従事者、または法華十カ寺のお寺から遠いところに住んでいる人々を真宗門徒にしたのではないかとおもわれます。
それから真宗の多くの寺院は、隠れキリシタンが多い地域に集中的に建てられています。それも憶測にすぎませんが、長崎の寺院の歴史はキリシタン弾圧と密接に関係がありますので、キリシタンの見張りとして建てられた可能性があります。

 萬行寺がある浜田郷には、現在の中学校の地に明治の始めぐらいまで塩田があり、江戸時代頃移住して来た人たちが塩田で生活をしていました。その人たちが現在の門徒です。
 それまでにどのような人たちが住んでいて、その人たちは一体どこに行ったかはっきりわかっていませんし、当時を物語る神社仏閣にしても、また資料や墓や住宅もあまり残っていません。
時津町には、かつて多くキリシタンが住んでいたともいわれ、その人たちは長崎市内の深堀の方に移住させられたとも言い伝えられています。
大村藩になる以前、この地には「時津氏/とぎつうじ」と呼ばれる豪族が住んでいたそうですが、市内にある深堀氏との権力争いに破れ、時津を占領されたともいわれ、その多くがキリシタンだったともいわれいます。(長崎のキリスト教信者には深堀姓が多いとも聞いています。)ですから、時津姓が深堀に多いのもそのせいだと云われています。そうしてキリシタンが退去させられて現在の人たちが何処からか移住させられて来たとも考えられています。

 1647年(天保4年)真宗専念山正法寺(大村藩)の末寺として、松浦(佐賀)出身の御厨左馬之助/みくりや さまのすけ(釈道夢)により開基された萬行寺は、現在地より100m位の離れたところに仏像を安置した草庵を設けていました。それが現在地に移ってきたのが1666年(寛文6年)。に本堂と庫裏を建立し、(ちなみに当時は本願寺派)1683年(天和3年)に「亀水山 萬行寺」と改号されたといわています。山号額はその頃、ここにやって来たものではないだろうかと推測されます。

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『亀水精舎』とは「亀水山 きすいざいん」という山号に因んだもので、「精舎 しょうじゃ」とは、古くはお釈迦様の道場であった『祇園精舎 ぎおんしょうじゃ』に由来します。意味は広辞苑によると、仏道修行者の住居の意。とあり、寺院。てら。とも書かれています。
真宗寺院において、庫裏は居住空間というよりは、むしろ『道場』の要素が強く、そこに僧分は寝泊まりさせてもらっているというかたちになっています。
そういう意味からすると、庫裏の玄関に掛けるほうが理想的かもしれません。しかし、額の大きさなどから、本堂に掛けることにしました。

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今回『小堀仏具』さんにお願いして修復していただきました。
ほぼ新品と見まごうほどです。

ブルーが印象的で綺麗です。






アメリカからの来客

真宗大谷派の寺院は世界各国にあります。
今回来寺したアメリカの青年も北米開教区からやってきました。
サンフランシスコやバークレー、LA。遠くはシカゴからも来ていました。
みんな中学生から高校生ぐらいの人たちで、日系3世から4世の若者です。
顔は日本人のようですが、ほとんど日本語は話せず。
でも正信偈や念仏は日本人よりちゃんとしていました。それに正座もちゃんとできる。見習うべきところがありました。

初日の晩は、雅楽を聴いてもらいました。


竜笛は外国で言う「フルート」にあたります。さしあたって「ジャパニーズ・フルート」といったところでしょうか。篳篥(ひちりき)はジャパニーズ・オーボエでしょうか、それにしては小さいかな?音は低い音なんかは似てるかも・・・・。






やはり雅楽の楽器の中でも特にこの竹でできた笙(しょう)は変わっているので、目を引きます。吹いても吸っても音が出る仕組みに始終感心していました。
聴いたことのない不思議な味わいのある音が出ます。英語では「a reed pipe wind instrument 」だそうです。

異国の文化人は若いこともあってでしょうか、何にでも関心を示します。
かれらは特に日本に関心があるようです。写真の彼は中でも最年長。日本のアニメなどに関心があるそうです。少しだけ日本語ができます。


それぞれに自己紹介をしました。通訳が入るので時間がかかりましたが・・・・。


次の日は長崎観光。
出島や中華街、それに寺町。長崎はヨーロッパと中国と日本の小京都が渾然一体とした変わった町です。
チャンポンや皿うどんを食べたいというので、中華街へ。近くにあるおおきな花火屋さんで花火を大量に買っていました。
夕方は回転すし。これもまた大喜びでした。
ただ、海外にはみんなで裸になってお風呂に入る習慣がないので、銭湯が苦手のようでした。
これも、カルチャーショックだったようです。



夜は花火。
アメリカでは独立記念日以外では花火は禁止されているんだとか。
長崎では夏になるとこれがどこでも「パンパンパンパン、バリバリバリバリ」聞こえてきます。
そうです長崎は日本一の花火消費量を誇っているそうです。(たいした自慢にはなりません)
これもまた大喜び。とても素直な青年たちでした。

たとえば線香花火を見て、諸行無常の哲学を考える。この感覚がアメリカの人にはわからないだろうな・・・・。
現代の日本人にもそんな人が多いんでしょうね。



アメリカの人はアメリカンドリームという言葉に象徴されるように、「頑張って努力すれば幸せになれる」と考えている人が多いそうです。実際アメリカで開教をしていて感じることだそうです。
それでも、昨今の経済事情。アメリカが不振を続け、経済が斜陽になってきたころから少しずつお寺にやってくる人が増えて来ているそうです。
まさに何時のどの世でも、「諸行無常」が当てはまらない世界はないのですから、いつまでも繁栄が続くと思うのは迷信でしょう。どんなに努力しても、その介なく終わっていく時があるのです。
その「自力が破れた」という時に、自然(じねん)に仏法が染み入ってくるのでしょう。
しかし、アメリカ社会では負けることはそれは許されないことなのだそうです。
そういった悪い面も、良い面でも人間は万国共通なのだと思いました。

海外では日本的な感覚では布教はできないとききました。なるほどそうだと思います。
仏教は時機の教えですから、その人や時代の機に応じて、本質は変わりませんが、表の姿は変わるものです。
海外での布教も、かつてキリスト教がこの国にやって来た時には、ずいぶんと宣教師が苦労し、仏教の考えを宿借りしながら布教したのだと聞いたことがありましたが、それは「なるほど」とおもいます。日本もそういった意味では、私を含め、まだまだ仏教を正確に理解する過程にあります。特に海外では、真宗は全くのアウェー。
キリスト教の国においては国民性から母語そのものが仏教とは世界観が違う中での布教ですから、なおさら大変で苦労が絶えないものだと想像します。しかし、人間の本質を問うならば、生死や無常、真実は不変なもので何時の何処の誰でもがそう畝づけるものです。これはは万国共通の人間の本質です。それを問うなら、人間の垣根などは簡単に越えられるものでしょう。
これから長い間かけて仏法は浸透していくものでしょう。しかし、これが世界の紛争や差別の温床にならないことを念じるばかりです。


朝早く出発。
その後は、京都の同朋会館に泊まりだそうです。
御影堂の大きさになんて言うかな?
大変でしたが、楽しい二日間でした。

過去の掲示板より

■ 2006年 5月 ■




すべての者は暴力におびえ
すべての者は死を恐れる。

己が身をひきくらべて
殺してはならぬ
殺さしめてはならぬ


  暴力によって、人間が人間であることを失ってしまった20世紀、その戦争と革命の時代が終わって、やっと安定した静かな時代を迎えたいと期待していた21世紀において、ますます危機は深まってきています。
近代15年戦争、それは世界中にとてつもない殺戮と破壊、それに経済格差を起こし、敵意と恨みは人類全体に深い禍根を残しました。
『日本国憲法』はその痛みへの懺悔から生まれた珠玉の法です。「世界遺産」となっても、不思議ではありません。日本人はもちろん、地上の命あるもの全ての宝物というべきでしょう。
この法のもと、戦後60年もの間、一度も他国の国民に銃口を向けないですんだ日本人の国が、なんと「平和のための戦争」ができる国になろうとしています。
「憲法改正」をめざす政府の考えは、平和をつくるために日本が戦闘行為をすることは正しい、こう正当化しようとしています。
かつての戦争で、殺された人々、殺させられた人々、身心に深い傷を負った人々にどう説明がつくでしょうか。
憲法9条の改変の動きは現代日本の「闇」です。このことに国民こぞって気づくべきです。今日の世界情勢は「やられたらやりかえす」・・・・・・「やられるまえにやってしまう」こういう悲しい時代です。
これではいつまでたっても戦死者もわれわれも、未来の子供達も安らぐことはできません。

親鸞聖人御命日定例

後堂

毎月28日は日本全国の大谷派のお寺で、親鸞聖人の命日の定例法要が行われています。
定例を行っていなお寺はありません!(言い切る。ショック

今月の正信偈の法話は7高僧の第一番目、「龍樹」の章です。
ようやく龍樹に取りかかりました。

25日 蓮如上人御命日定例


毎月25日の定例法座では、和讃についてお話しをしています。

今回の法話は若院。

大経和讃です。

まず大経(仏説無量寿経)和讃を読み始める前に、仏説無量寿経の前半の概要を簡単に説明しました。
まず、「如是我門/私はこのように聞かせていただいた」という書き出しから始まります。これは弟子のアナンの言葉です。かれはお釈迦様の言葉を一番多く聞いていたので多門第一と呼ばれていました。彼がいなければ私たちはこうして仏法を聞くことが出来なかったのです。
それから、次に出てくるのが釈尊が実際にたくさんの弟子たちに道場で法を説いているところから始まります。それからたくさんの菩薩たちが出てきます。これは釈迦の生きた教えに出会った者たちを表し、ここに出てくる菩薩たちとは、その後に仏の教えに出会い道を求めて生きた門法者を表しています。ですから大きな括りでいえば、この中に我々も入っているわけですね。
ですから、お経というのは昔話ではなく、時代や場所や人種を超えて、人間の根本的な心に語りかけているのです。

 釈尊はおおよそ2600年前に亡くなりましたが、その言葉はお経となって我々に今も語り続けていると考えるんです。
それを「今現在説法/こんげんざいせっぽう」として、私たちは今、現にこうしていただいているのです。
そういう意味では、無量寿といえます。

それからある菩薩が兜率天(とそつてん)というところから、自ら選んでゴータマシッダルタと名のる王子に生まれられます。そして7歩いたといわれています。これは6道という仏教でよくいわれる迷いの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)という世界を超えるという意味で、生まれたその時から仏とは、我々にとってどういう存在であるのかを示す使命を持って、菩薩はこの世に生まれたとあります。これは一つの喩え(メタファー)です。
それから、「生病老死をみて世の非常をさとる」とありますから、「人は生まれたら死なねばならない」という人として生きることの悲しみを背負って出家されたということを示しています。
そうして地位や名誉や財産、それから子どもや妻、全て捨てられるものは全て捨てて裸になって森の中で6年間の苦行をするということが書かれていあます。


そこから、ここが面白いところです。大経は話が一転して、急に時間を遡ります。
その菩薩が生まれる遥か以前の世界に行くのです。
そういって修行した菩薩が51回あらわれて如来となった話をお釈迦様はされます。そうしてやっと法蔵と名のる菩薩にようやくなったのだというのです。
このお話をお釈迦様の人生の歩みになぞらえて、法蔵菩薩の物語は展開していきます。