春季彼岸会

kanekazu

今回初めておいでいただきました。

尺一先生です。

とても元気な方で、とても声が大きい!

初めてマイクの音量を下げました。

元気いっぱい。でも、この方、老院さんですよ。

知恩報徳。

仏恩という事をお話しいただきました。
元気です。

九州教学研究所定例会in長崎

今日は佐世保別院において、九州教学研究所の定例会が行われました。

 

報恩講 結願 28日

 報恩講の全日程は一応今日でおしまい。あとは次の日の「お浚い」をのこすのみです。

狐野先生は来年もおいでいただく予定です。

最終日の日中は法要終了後、すべての参詣者にお斎がふるまわれます。その後はすべての片付けとお華束の解体と華のたて代えが行われ、すべての荘厳が1日がかりで何もなかったかのような平常の荘厳にきれいに戻されます。

全地区の講頭が一同に集まっての作業。この日が法要の参詣としては一番多い日です。

 

 

報恩講 大逮夜(入楽)27日

逮夜の法座は今晩が最終。

大逮夜はこの一週間で一番賑々しく勤められます。

今晩は楽人が5人ほど、教務所員や組内のお寺からもお坊さん方が何名か来られます。

一般的に「雅楽」という音楽に「お寺」をイメージする人は少ないのではないかと思います。

私などは、神社や貴族たちが優雅に宮廷で蹴鞠を蹴って遊んでいそうなイメージです。しかし、そもそも雅楽は仏教音楽として発展し、シルクロードを伝わって日本に伝来したものだそうで、荘厳な浄土世界をきらびやかな内陣装飾と聴覚的な音楽、それから嗅覚として香を炊き、五感でもって浄土世界を観ずるものとして発展してと聞いています。

たとえば教会だとパイプオルガンが有名でしょうし、それらはすべて「壮大な世界」を音や装飾などによって様々な工夫が凝らされてて表現されてきたのだろうと想像します。

たとえば雅楽の場合でも、東洋独特の音感やリズムによってアジアのシルクロードの幻想的な風景を想像させたり、聴く人のどこか懐かしさのような感じもあるのではないかと思います。

話がそれましたので

 

寒い時期の法要ですが、この大逮夜の参詣は年々増えつつあるようです。

始まりは7:30から。法要の後には参詣者全員に「お通夜」ということで、赤飯などの「おやつ」が振る舞われます。終了は少し押しますが9:30の予定です。どうぞご参詣ください。

 

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報恩講 6日目 26日

過ぎてみれば早いものであっという間の一週間のような気がします。

しかし、あと二日。油断すると痛い目にあいます。

 

夜座から孤野先生がお話しされます。

京都の全寮制の学校、大谷専修学院の院長を務めていらっしゃいます。

前院長の竹中智秀先生が亡くなられ、その後を学院長として引き続がれました。大谷専修学院はまさに念仏の道場と呼ぶにふさわしい学校で、全寮制で一年かけて親鸞聖人の教えを学ぶところです。このところ新学舎が完成し、新学舎での生活が始まっているそうです。

 

この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。

このことばを先に唱えられ、ご法話を始められ、浄土に往生ということについて先生ご自身が昨今感じていらっしゃることを、平易に丁寧にお話くださいました。

「人間、やはり年をとるとそのような気持ちになるものですね。若い血気盛んな頃はこんな事無かったんですけれども、この歳になるとやっぱりお浄土が近くなったというんでようか。死にゆく我が身ということが気になります。」


倶会一処(くえいっしょ)

寺の建ち並んでいる寺町を歩いていると、境内の墓地の墓石に「何々家先祖代々」や「何々家累代」と刻んだ場合が多いが、墓の正面に「南無阿弥陀仏」または「倶会一処」と書いてあれば、そこは浄土真宗の寺だとわかる。

 「倶会一処」は浄土の徳をあらわす。『阿弥陀経(小経)』に念仏往生を勧める釈尊の言葉として説かれる。

   舎利弗よ、この娑婆世界の苦を受けているものは、阿弥陀仏の極楽世界のすばらしいはたらきを聞いて、発願してその阿弥陀仏の国に生まれたいと願うべきだ。なぜかというと、阿弥陀仏の国は無量無数のよき師、よき友が待って迎え、みな共になかよく集まり一つになって出会うことができるからだ。

 この世の悲しみの一つに愛別離苦がある。どんなに愛おしい者であっても、いつかは別れなければならない。いのちある者の定めである。その身もだえするのは煩悩だということは十分わかっていても、それでもつらく悲しい。

 いのちの行方を問わずにはいられない煩悩具足の凡夫のために、釈尊は阿弥陀の本願を説き、念仏往生の道を勧めた。「倶(とも)に一処(いっしょ)に会(え)する」。

本願を信じ念仏申す中で、必ず浄土で再会すると示した。別れの悲しさを内にやさしくつつみ、顔を上げて今生のいのちを生きる姿勢を教えられるのである。

                 『大法輪』2015年12月号


 

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