萬行寺日曜学校お泊まり会

夕方から子どもたちが集まってのお泊まり会です。
参加者は大人も入れると30人ぐらいです。



まずお勤めをしてご院下さんの話を聞きました。
おはなしは『捨身飼虎/しゃしんしこ』というインドの古いお話です。
ある王子が飢えて死にそうになっている虎の家族のために自分の身を捧げて虎の親子を救い次の生でお釈迦様さまとして生まれてきました。というお話です。



みんな熱心に聞いていました。聞くということは大切な修行です。



夕食の後は毎度おなじみマジックショーです。
鈴木のおじちゃんががきてくれました。
こどもたちからは『マジックのおじさん』で親しまれています。










次の日はラジオ体操と朝のお勤めです。



まんが日本昔話に夢中!



そのあと朝食をいただいて大縄跳びです。






記念撮影!!





今年最後の蓮の花が咲きました。いよいよ夏も終わり秋の到来です。





<宿縁から宿善へ>

最近、同年代の人を集めて平和や世界の事や自分のことを事を考えるための学習会をやっています。
今月で10回目になりますが毎回10人ぐらいの人が集まります。
門徒でない人や門徒の人、様々ですが「日曜学校に来ていた」という人も少なくありません。
何十年ぶりにお寺にきたという人もいます。こんな事がなければお寺に集うという事はあまりないのでしょう。
大事なご縁だと思います。

その学習会でいろいろ話をしていくうちに、その世代ならその世代なりに悩みや苦労があり、皆一様に生きる事に苦悩を抱えているようです。
それぞれに必死にいきています。
本当の生き方を求めているのではないかと感じています。

「解っているけれどどうもならない」
「先行きが見えない」
「こんな事をしていて自分はどうなるのかと思う」
「相談する相手がいない」

などの声をききます。

現実の暮らしに埋没してそう生きる事しか出来ない自分に苦しんでるようにも感じます。

そんな人が最近、平和についての学習会に来るようになりました
「子供の頃に日曜学校でお寺に世話になってました」という人も来るようになりました。

宿縁の「宿/しゅく」は”むかし”と読みます。
つまりむかしから念仏の教えに触れていることが現在のここに集う縁になっているのです。

その縁を宿善に変えるのです。
宿縁だけではだめです。縁があってもその縁の大事さに気づかなければ、短い人生は空過します。
一期一会とも言われるように、これはとてもだいじなことです。
お寺は楽しい遊び場だったということで完結させてはいけません。
これはお寺に暮らす私たちの問題でもあります。

今回お泊まり会でお寺に集まった子供たちも、きっと悩みや苦悩を抱えてお寺に来る事があるでしょう。
この縁がきっと何等かの形で仏法に出遇う機会になっていくことは間違いないのです。

今日は日曜日だった。






今日はいい天気。
たいがい日曜のお寺はいそがしいものですが、5・6月は法事や年忌が少なくわりとゆっくりです。

きょうは日曜学校で、仏足石のお話をしました。

「仏さまの足は大きくて柔らかい。どんなものを踏んでも殺すことはなありません。それどころか、踏まれた虫や草は仏様に出会ったことをとても喜びしあわせになります。だから、できるだけたくさんの人を踏んで喜ばせたいために、仏さまの足は偏平足になっています。」




蓮の花が花を咲かせる準備を始めています。今年も元気で綺麗な花を咲かせそうです。







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きょうは日曜です。

15人ほどの子供があつまりました。
今日は七高僧のクイズをしました。




難しい字もちゃんと書けました。







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萬行寺日曜学校

今日は日曜学校。




今回はレオ・バスカーリア作。
   みらい なな訳

絵本『葉っぱのフレディ(いのちの旅)』を読みました。



物語は、一枚の木の枝の若葉として生まれた「フレディ」の世界をとおして、誰もが避けては通れない死の問題をやさしい言葉でかかれています。
死という人生の根本問題を通して観えてくる生の意味。
そして「いのち」の連続性を考えさせてくれる絵本です。





 

日曜学校

きょうは、雨でした。雨
ざんざん降りです。
どうやら恵みの雨です。

そんななか、きょうは13人の子供たちがきました。
そのあと、みんなでお茶会をしました。
(・e・)





萬行寺日曜学校は、少なくとも100年以上は続いている歴史があるようです。先々代の坊守が萬行寺にきた時にはすでに子供たちが集まって正信偈をあげていたそうです。
その頃すでにいつ誰が始めたのか知らなかったといいますから、ひょっとしたら明治時代ぐらいから続いているのかもしれません。そうなると100年以上になります。
これは残念ながら、今となっては知る術もありません。

 昔は萬行寺から遠く離れた日並や長崎市内からも何キロも歩いてきていたようです。今は交通の便が良くなり、以前よりまっすぐで歩きやすい路が出来たのですが、昔より近くなりましたが子供たちを取り巻く状況も変わったことなどもあって、お寺に足を運ぶ人の数は減っているようです。これも過疎化と高齢化の影響ではないでしょうか。

ここからは想像なのですが、当時は学校というのもないですし、子供を通わせるのにも、お金もなく、家の田植えや畑仕事などに子供たちも貴重な労働力として参加していたような時代だったようですから、そのことを思えば、日曜学校というのは子供たちの唯一の学びの場だったのではないでしょうか。

今のように塾や学校がないのですから、したがって受験勉強もする必要もなかったのでしょう。
更に昔に遡れば、信長の時代に日本にやってきた宣教師が、日本人の識字率をみて驚いたようですが、その当時、蓮如上人の御文がさかんに読まれていたことから、そういった識字率になったようです日本人の文化レベルの高さはそこからきているのかもしれません。

そうして考えてみると、「人間は考える葦である。」というように、考えるから人間は現在の人間にまで辿り着くことができたのです。
しかし、勉強することは、そういった意味でとても大事ですが、仏の教えは、そういった世間を生き抜く知恵を教えるのではなく、もっと人生にとって根本的なこと、自己とはなにか、”ヒト”として生きること、生まれた意味や、いのちの尊さがわかる人になってほしいという仏の願いがあります。

大切なことがわかっていないなら、いくら勉強しても、原子爆弾をつくったリ、独裁者になってしまうこともありえますし、人の心の痛みがわからない人間は自分をも苦しめていくことになっていきます。
そういう意味で、人間を考える教育の場はこれからも大切に守っていかなければいけないのではないかと思います。

     ーこどもの三帰依文ー

   わたくしたちは ほとけのこどもになります。
   わたくしたちは ただしいおしえをききます。
   わたくしたちは みんななかよくいたします。

新年度がはじまりました。


毎年、4月1日は新一年生のお祝いの式です。拍手
今年はあいにくの小雨でしたが、10数名の元気いっぱいの子供たちとおとうさん、おかあさんがきてくださいました。 
記念の念珠と勤行本をいただいてお勤めをします。
「いつでも、どこでも”なんまんだぶ”と念仏しよう、そしたらいつでも、どこでもほとけさまはついてきますよ」と御院家さんのお話に、日曜学校のおにいさん、おねえさんもおとうさんもおかあさんも一緒に耳を傾けました。
歌を歌ったり、記念写真を撮ったりして、楽しいひとときでした。
きっとこの日は大事な一日だったと思い出してもらえることでしょう。  ー坊守ー