年末の大掃除

毎年恒例のすす払いが行われました。来年の22日から始まる報恩講に向けての準備です。

一年の汚れを落として新年をお迎えします。来年はいよいよ御遠忌をお勤めする年です。
50年間の汚れをどこまで落とせるか・・・・・。

普段掃除をしないところまで奇麗に掃除をしておしまいです。
最後はお斉(おとき)をいただいて解散です。毎年ありがとうございます。煤払い2


帰敬式二日目!!

_DSC0088 (12).jpgまず受式にあたっての諸説明と心得をしたあと、受式後の聞法生活について書かれた受式者へ配られた記念品の小冊子を読みます。帰敬式を受けるということはどのようなことか、このような時代に帰敬式を受けるということはどのような意味があるのかということが書かれていました。


_DSC0013-66.JPGこれから本堂に入りますが、ここで順番を間違えると法名を伝達するときに法名の渡し間違いがあるかもしれません。しっかり受式者番号と照らし合わせて整然と並んでの入堂です。


_DSC0094 (8).jpg南無帰依仏/南無帰依法/南無帰依僧と称えながら一人一人剃刀を頭にあてていきます。今日は仏弟子としての誕生日です。現代は宗教離れが叫ばれています。また若い世代には自分の家の宗教が何宗の何派かも解らない人たちが多いのも事実ではないかとおもいます。また、核家族などにより手を合わせる機会の少ないのも現代の特徴です。そんな時代だからこそに真宗門徒としての自覚を一人一人が持ち、それ故に一人一人が自覚的な自律した宗教観を持って生きることが強く求められる、ある意味で理想的な宗教観を持ち得る井伊時代
でもあるとも云えます。そのようなことを考えてもれば。かつての時代の「私の家は真宗門徒です。」といっていた頃から一歩進んで「私が真宗門徒です」と自信を持っていえることが、自立を求められる時代を生きるうえで大事なことではないかと思います。
大谷派はこの五十年間真宗同朋会運動という信仰運動に古くなった宗門体質を克服するということを託してきました。その中の大事な柱に「個の自覚」という項目があります。これはまさに帰敬式を受けて一人一人が自立した念仏であることを願っていると受け止めていいのではないかと思っています。ですから帰敬式は同朋会運動の実践課題の一つではないかとも改めて思わされているところです。
なんとか一日目を終了。
初日は夜の式もあり計3回でしたが今日は朝と昼の部でおしまい。
いつ行っても緊張する式です。中には涙を流されるご門徒さんもいらっしゃいます。
一生に一度の大事な式ですので、執行する側も真剣です。


帰敬式6



_DSC0093 (11).jpg今回の帰敬式は「御遠忌お待ち受け」ということで大風呂敷を広げて受式者を募集しましたが、想像以上に反響があったことを有り難く思います。各地域の講頭さんや役員の方々が声かけをしてくださった賜物だと思います。重要なのは受式してしまって「はいおしまい」とならないように今後このご縁をどのようにいかしていくのかが課題となります。



_DSC0027-59.JPG今回の受式者の中には過去に帰敬式を受けたけれども法名を紛失してしまった方も随分いました。法名は時々出して確認をしてください。そして何よりも自分の名前ですからなるべく憶えてください。名前は称んで初めて名告りとなり、称ばれて初めて名乗られたものとして自覚することが出来るのです。南無阿弥陀仏も同じことがいえますが、子どもに「お母さん」と呼ばれて初めて自分が「お母さん」と自覚する。お母さんになろうという用きが起こってくるのです。そのように呼ぶ呼ばれるという関係に必要なものが名前なのですから法名も大事にしていただきたいものです

帰敬式!!初日

いよいよ御遠忌お待ち受けの帰敬式が今日と明日の2日間かけて行われます。
帰敬式2まずは受付を済ませた後、受式についての注意事項や受式記念品の確認や帰敬式受式の心得、肩衣の掛け方や念珠の持ち方、受式に当たっての諸注意などが説明されました。皆さん真剣に聞かれていました。とても緊張感があります。
帰敬式1皆さんそれぞれの思いの中で仏弟子となることの意義と法名をいただくことの意義を見いだしての受式ではないかと思います。生涯をかけて会わなければいけないのは自分自身であるとはよくいわれますが、仏法を聞いて解るのは唯仏の願いに背いて生きている自分の相のみが知らされるのです。そのあゆみが今始まったのではないでしょうか。

帰敬式3記念撮影をしました。天候もよく、日差しが強いので写真を撮るのは写真屋さん泣かせでした。人数が多いので終了までに時間がかかると思っていましたが大方の予想を超えて早く終了。写真屋さんに伝えていた時間よりも早く終わってしまったので慌てましたが、なんとか初回は終了。一段落して次の受式の準備をします。

帰敬式の準備

いよいよ帰敬式の当日が迫ってきました。
今回は284名の方が受式されます。当初は288名でしたが体調不良などの理由で4名の方が受式を辞退されて284名になりました。
これでも過去最高の受式者数ですが、本来の募集予定数の300名。あとわずかに届かず残念です。
いよいよ明後日から帰敬式が行われます。
2日間で計5回の執行です。多い日は午前中は定員ギリギリで本堂いっぱいの受式者で60名を越えます。実際並んでみると本堂が狭いなと感じてしまいます。
掃除、荘厳。
正座をできない人があるでしょうから椅子の用意をします。他のお寺からも椅子を借りてきました。
外ではテントをたてて受付の準備です。
どんなに準備をしていても、不測の事態はいつおこるか解りませんので、十分に気をつけたいとおもいます。
堂内では導線の確認と段取りの確認をしています。

講頭総会

講頭総会が行われました。
主な議題は、今年度の決算と来年度の予算の報告と御遠忌の報告などです。

白道会総会と還暦祝い会

毎年恒例となってきました萬行寺仏教壮年会「白道会(びゃくどうかい)」の総会です。
萬行寺の壮年会が「白道会」と名称を変えたのは最近のことだそうですが、壮年会自体は100年とまではいきませんが、それに迫るほどの歴史を持っているそうです。
時代とともに表看板や内容なども変化させながらの歴史だろうと思います。
萬行寺には、
真宗婦人会
日曜学校(萬行寺子ども会)
萬行寺壮年白道会
の活動が現在ありますが、「萬行寺仏教青年会」は現在活動休止中です。
どれも確かなことは分かっていませんが、どれもずいぶんと古い伝統を持っているようです。
「白道会」の名称の由来は
七高僧の一人である善導大師の書物「観無量寿経疎(かんむりょうじゅきゅしょ)」といわれる書物の中に出てくる
「二河白道の譬(にがびゃくどうのたとえ)」といわれるところからいただきました。
一人の行者が阿弥陀の浄土に向かってのびる細く白い一筋の道を歩んでいく様子を、上手いこと私たちの聞法人生になぞらえて描写された文章が出てきます。そこから名称をいただいています。




その後は恒例のお楽しみ。
宴会です。

帰敬式の集い

 今回でようやく5回目になる帰敬式の集いですが、年々参加者が減ってきています。最初の年は幸先がよく60名を越えていましたが、去年ともなると10名ほどになりました。今年はさらに少なくなって5名。こちらの努力不足が露呈された形になりました。
これだけ参加者が減ってしまったということは、参加者の要望にこちら側が十分応えられなかったこと。または「また来たい」と思っていただける工夫と努力が足りなかったということをだろうとおもいます。
一方で、帰敬式を受られた方の意識の中にも「仏弟子」となるということの大切な意味が深まっていないのだとも思われます。また、そこのところが大きな課題です。

しかし、よく考えるとこれぐらいの人数の方が一人一人法名の意味をしっかりお話し出来るのでいいものです。、一宗の繁盛 と申すは、人の多く集まり、威の大なる事にてはなく候』と蓮如上人がいわれるように、人がそこにたくさん集まっていればそれでいいのかということもあろうかと思います。
住職が一人一人丁寧に法名の意味を語っていました。
次回は賑々しい会になることだろうと思います。

長寿者お祝い会

毎月28日は親鸞聖人の御命日として定例法座が勤まっています。
今日の定例法座には萬行寺真宗婦人会の企画「長寿者お祝い会」も一緒に勤めます。


新入学児 お祝い会

4/1新入学お祝い2萬行寺真宗婦人会の企画として始まったのが今から34年前。本堂が新築され、今の代の住職になってからのことです。それから毎年恒例の行事として行われてきました。


4/1新入学お祝い334年続けると、以前に自分もお祝いをしてもらったという親御さんがこどもを連れてくるようになっています。その次は同じ方が今度は自分の孫を連れてくるようになることでしょう。


4/1新入学お祝い1以前はお祝いする児童の数が少なく心配された年もありましたが、今年は例年よりも多い参加者で賑わいました。

新入学児お祝い会

日本は仏教国とよくいわれますが、お釈迦さまの誕生日よりもイエス・キリストの誕生日の方がなぜだか有名です。
さらに親鸞聖人の誕生日となると真宗門徒でも知らない人が多いのかもしれません。
ということで今日は親鸞聖人の旧暦の誕生日です。新暦の誕生日は5月21日だそうです。

ということで、4月1日は真宗寺院では色々な形でお祝いの行事が行われています。

 それはさておき、親鸞聖人の誕生日とは関係はありませんが、今日は新しく小学校に入学する児童のお祝い会です。
このお祝い会は婦人会の恒例行事として毎年行われています。今年で32回目のお祝い会です。
以前の写真を見ると、40人ほどいた賑やかなお祝い会もあったようですが、最近では少子高齢化の影響もあるのでしょうか、それとも呼びかけが足らなかったのか今回は5人の小学生のお祝いでした。それでも子どもたちは楽しそうにかえって行きました。思い出に残るお祝い会であってほしいものです。「むかし、お寺で小学校の入学祝いをしてもらったなぁ」といわれるようになればいいのではないかと思っています。
 32年も続けると、かつてお祝いをされた人が大人になって、自分の子どもを連れてお寺にやってくるようになっています。続けることが大事だなと感じました。
これで、日曜学校に来てくれる子どもが少しでも増えれば・・・・・・。なんて欲が出ます。

帰敬式についてのQ&A

Q そもそも帰敬式(ききょうしき)ってなんですか?
A 帰敬式は仏教徒の入門式とお考えください。「おかみそり」が真宗独特の儀式として発展し、1876年に「帰敬式」と名が改められました。その原型となる儀式は、釈尊在世の時代にまで遡ります。在家信者が釈尊の弟子となるとき、出家者の場合には実際に剃髪(ていはつ)をしますが、在家信者の場合には、形式的に剃刀(かみそり)をあてたといわれています。そのことに由来し、真宗の帰敬式では「おこぞり・おかみそり」とよばれてきました。本来は京都の真宗本廟(東本願寺)にて受式し、ご門首より法名をいただくのが正式な帰敬式となっていますが、近年の「帰敬式実践運動」の広がりにより、お手次の寺院の住職によって執行できるようになりました。

Q 「髪をおろす」ということに何か意味があるのですか?
A  仏教では髪を剃るという行為に「勝他(しょうた)・利養(りよう)・名聞(みょうもん)のもとどり、髪を剃りすてる」と教えます。「勝他(しょうた)」は、他人よりもすぐれていると思う心のおごり。「利養(りよう)」は利欲をむさぼって私腹をこやすこと。「名聞(みょうもん)」は世間での評判のために体裁を取り繕(つくろ)うこと。つまり見栄のことです。「もとどり」とは「束ねた髪」のことで、つまり「丁髷(ちょんまげ)」を剃り落とすということです。権力の象徴である「まげ」を落とすことによって、権力や地位、財産や名誉にこだわり、自分をよく見せようとするこころをすてるということを意味しています。そこにみな平等に三宝を敬う姿勢が表れてくるのです。

Q  帰敬式はなぜ受けなければならないのですか?
A   現代は新興宗教にはまる人が多いといわれています。その中には悪質なものも少なくはありません。一度入り込むと抜け出せず人生設計のすべてを狂わせるものもあると聞いています。もし、そのような宗教の勧誘にあったならば、「私は親鸞聖人の教えをいただいている真宗門徒です。」とはっきりいえることが大事です。そのためには真宗門徒としての自覚をもち、お寺の行事等にすすんで参加するなどのこころがけを持っていただき、親鸞聖人の教えに深く関心をもつことが大切です。そのご縁となるのが帰敬式です。そういう意味において、帰敬式を受式しておくことは大切なことです。
    私たちの所属している宗教団体名を「真宗大谷派」といいます。私たちが信仰している浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の教えを聞く人たちを「門徒」と呼んでいます。その真宗大谷派の憲法にあたる『宗憲』には、「すべて門徒は、帰敬式を受け、宗門及び寺院、教会の護持興隆に努めなければならない。」とあります。したがって当派の宗憲においては、帰敬式を受式おられない方は真宗門徒とはよべないといえます。
    葬儀の際、亡くなられた仏教徒の法名を位牌などに記載しなければなりませんが、生前に帰敬式を受式されるご縁のなかった方の場合、本来ならば法名がない方は仏教徒ではないことになりますので、仏教式での葬儀式が執行できません。

ですから、本来の形ではありませんが便宜上、亡くなられた後に帰敬式を執行し、法名を授けて、仏教徒となっていただいた後、葬儀を行います。そういうことからもご縁がある方は生前に帰敬式を受式し、仏教徒とならなければいけないといえます。
いのちはいつ尽きるかわかりません。ですからご縁のある今が受式をするチャンスではないかと思います。
  
Q 法名ではなく、親から頂いた名前ではいけませんか?
A 私たちが普段使っている名前は俗名(ぞくみょう)とよばれ、両親の願いがかけられた一生使う大切なものです。一方、帰敬式を受けると「釈」の名字が冠せられた二字の法名を如来より賜ります。これは如来からこの世を生きる使命を賜った証であるといってもいいでしょう。如来さまの願いを「本願」といいますが、その本願に出遇い、三宝に帰依して「道を求めて生きる」という名告りですので、真宗では「俗名」ではなく、「法名」を名告ります。

Q 本来、「法名」は亡くなった時にいただく名前ではないのですか?
A 法名は、お釈迦さまの教えを聞いて生きる者としての名告りですから、亡くなってからの名前ではありません。私たちは大切な方が亡くなられると、葬儀や法事を勤めます。そしてそれらは当然「法名」で行われます。それは教えに生きた先達としての尊敬と敬いを表しています。

また、各ご家庭ではお内仏に亡くなった人の法名をおかけしますので、亡くなってから使うものと誤解されがちです。私たちは、葬儀や法事を「死者供養」「先祖供養」という意味で勤めがちなようです。しかし、亡き人への追善の供養が、本当に亡き人を大事にし、亡き人の生涯を尊び敬うということになるのでしょうか。残されたもの本当のつとめはどのようなものか私たちは今ひとつ深く考えていきたいものです。

Q では、なぜ真宗では「戒名」と言わず「法名」と呼ぶのですか?
A 「法名」と「戒名」は呼び方が違うだけだとお考えの方もあるようですが、基本的に「法名」と「戒名」は意味合いも成り立ちも異なるものです。一般的に言われる「戒名」は死後に与えられる名前と考えられているようですが、実は本来という形からいうと、それも誤解なのです。

<戒名とは> 

仏に成るために厳しい修行を積む仏道を「聖道門(しょうどうもん)仏教」と言います。そこでは様々な厳格なルール(戒律)が修行者に課せられ、それを遵守しながら生活をします。その厳しい戒律をまもって規則正しい生活をして聖者になっていくのです。

そういう修行をするものを聖道門仏教では「仏弟子(仏教徒)」と呼び、自らを厳しく戒(いまし)める心を「戒(かい)」といい、仏道を歩む者のたちの集団のルールを「律」といいます。そこでその道に入ると誓った証として『戒名』を授かるのです。戒を授って初めて一人の修行者として認められるものが「戒名」というものです。

<法名とは>

 一方、真宗の教えは「愚者になる教え」ともいわれ、どのような修行に励んでも煩悩にまみれてしか生きることができない自分であることを自覚することが大事だと説かれます。どんなに厳しい修行をしたとしても、そう思う心すら煩悩から起こってくるのですからどうしようもありません。私たちはむしろ煩悩を断ずるのではなく、煩悩を先生として頂いていくところに親鸞聖人がかつて仰った言葉、「いずれの行もおよびがたき身」であるという「愚者の自覚」をいただくのです。ですから、私たちに残されたのは唯念仏を称えて生きることだけが唯一の道なのです。だからこそ阿弥陀如来は、そのような私たちに「我が名を呼ぶ者を無条件に救い遂げる」と誓っておられるのです。その如来のこころを聞き、その願いに生きる者を「真宗門徒」と呼び、その道に生きる者に平等に法名が如来より授けられるのです。


Q 仏教徒となることは帰依三宝を中心とした生活者となることと云われていますが、その「帰依三宝」とはなんですか?
A 三宝(さんぼう)とは、「仏(教えを説くもの)」・「法(教えそのもの)」・「僧(教えを聞く人々の集まり)」のことであり、それは釈尊(しゃくそん)によって確かめられた南無阿弥陀仏の法が、現実の世界に具体的にはたらく姿をあらわしたものです。「仏」とは、苦しみに悩む人間を救おうとする南無阿弥陀仏の法に目覚めた「人(釈尊(しゃくそん)・諸仏)」であり、南無阿弥陀仏は、ことばにまでなった「法」であります。また、「僧」とは、「僧伽(さんが)」といわれ、南無阿弥陀仏によって結ばれた人びとの「あつまり」のことです。私たちにとって、この三つを依りどころとして生きること(帰依(きえ))こそが大切であるという意味で「三宝(さんぽう)」といいます。

Q 「帰依」ってなんですか?
A この三宝に帰依することが仏教徒としての第一歩です。三宝への帰依はそのまま南無阿弥陀仏への帰依をあらわします。帰敬式においても、南無阿弥陀仏の教えを聞いて生きるものとなりますという自らの名告りとして「三帰依文(さんきえもん)」を唱和します。

「帰依」には、私の生きていく依りどころと、生きる方向が定まるという意味があります。仏・法・僧を三宝とする仏教徒は、自らの欲望を満足させるためにいろいろな神をたのんだり、日の善し悪しを占ったりしないのです。つまり帰依三宝の表明はそのまま私の信仰の表明といえます。

 ■その他の質問  
Q 受式後はどのような生活を心がければいいのですか?
A 世間的な因習や常識に流されがちな日常にあって、忘れてはならないことは仏教徒であることの自覚です。その自覚とは、朝夕の勤行を生活の基本とし、お寺の法座にもすすんで身を運び、迷信などに迷わされない正しい教えを聞く習慣をつけることから始まります。

 その聞法の生活とは、南無阿弥陀仏の法がわが身にはたらき展開するということです。そのはたらきは仏の教えを中心とした生活規範と実践の中に生まれてきます。まず、お寺やお内仏での仏法聴聞に限らず、食事の時は食前・食後のことばを唱和し、生活のありとあらゆるところでお念仏をいただいていく生活実践がその人をまことの念仏者に育ててくださるのです。

 

Q 私の家は分家で、まだ葬儀を出していないので、門徒ではないのですが、それでも受式出来ますか?
A 帰敬式の本来の願いも、門徒の有無も、本家・分家の違いを問わず受けることができるのが帰敬式です。縁有るときが受式のチャンスだとお考えください。今回の帰敬式は特に分家の方や遠隔地にお住まいのご家族に受式を進めていただければと思っています。出来るかぎり多くの方が受式されることをねがっております。
 

Q 私は子どもの頃、法名をいただいたのですが、その用紙が何度探しても見つかりません。そのような場合、もう一度受式することは可能ですか?
A ぜひ受式ください。法名は1996年(平成8年)からすすめられている「帰敬式実践運動」によって東本願寺が管理をするようになりました。しかし、法名は仏さまからいただいた大切な自分の名前です。自己管理が基本ではないでしょうか。そしてなによりも大事なことは、法名とは生涯の課題を名前として顕(あらわ)したものでもあるのですから、法名用紙の有無が問題ではなく、そこに書かれた名告りが大事なのです。南無阿弥陀仏の名号も同じことですが、名前は呼んで初めて名前となり、呼ばれて初めて自分の存在を知らしめるのです。ですから、法名をいただいた方は引き出しに大切にしまったままにせず、憶えて大切に使って頂ければと思います。

 

Q 私は子どもの頃に法名をいただたのですが、この機会にもう改めて真宗門徒として受式したいと思いますが受式できますか?
A できれば頂いた法名を大事にしていただきたいと思います。子どもの頃受けられた法名には親の思い出と願いも込められていると想像します。そのことも噛み締めてみると、とてもありがたいことではないかと思います。

しかし、どうしても「真宗門徒としてもう一度歩み直したい」とおっしゃるならば受式ください。ただし、法名が「気に入らない」などの理由で受式したい方はご遠慮ださい。


Q 娘を受式させたいのですが、将来真宗の方とご縁があるかわかりませんので受式させようかと迷っています。もし、他宗に嫁いだ場合には法名はどうなりますか?
A ●まず、基本的には帰敬式そのものは仏教徒となる儀式ですから、本来は仏教の宗派は問わないものです。しかし、宗派によってそれぞれの伝統と考え方がありますので、そのことを尊重すべきでしょう。まず、娘さんが嫁がれた場合、その家のお手次のお寺にお尋ねください。

  ●「他の宗派に嫁ぐかもしれない」ということを悩まれているようですが、もう一度よく考えていただきたいと思います。真宗門徒として一番大切なことは、真宗門徒の家庭に生まれたのならば、念仏の教えにであってほしいと思うその気持ちです。そこからはじまるご縁もあるのですから、そのこともお考えください。帰敬式が真宗のご門徒とのご縁つなぎになることだって十分あり得ることですので、ぜひ受式ください。
 

Q 当日、受式するのは本人でなければいけませんか?
A 帰敬式はお一人お一人の名告りですから他者がその代務をするということはありません。必ず本人がおいでください。

ただし、申し込まれた方で病気や仕事の都合などでどうしても当日受けられない場合は、事前にお寺にご連絡ください。

後日改めて執行いたします。
 

Q 帰敬式を受けるときに気をつけることは?
A 必ずご自分の念珠(数珠)を持参してください。

  <服装>

  あまりラフな格好や華美な服装は避け、アクセサリーなどは極力控えていただければと思います。

  <肩衣と勤行本>

  帰敬式で用いる略肩衣(りゃくかたぎぬ)と勤行本は、受式される皆さまに当日の記念品としてお渡しします。帰敬式では、決められた略肩衣をかけて受式していただきます。

 

なお、当日の詳細については申し込み期間終了後に追って受式票を送付し、ご案内いたします。

                        真宗大谷派亀水山萬行寺  

白道会総会

「白道会(びゃくどうかい)」とは、萬行寺の壮年会の名称です。
今日は、総会と還暦者祝い会と、その懇親会がありました。
白道会は毎月、定例の集いを開いて聞法学習を続けています。一応、萬行寺壮年会となっていますが、年齢は問わないこととなっています。学習内容は「正信偈に学ぶ」と題し、親鸞聖人の著作である「教行信証」の信巻に修められている
正信偈に念仏の謂れを訪ねています。
毎月の例会は出席者は少ないようですが、それでも会員の皆さんの熱心な呼びかけによって少しずつですが参加者が増えているようです。

今回は還暦者のお祝い会を行いますが、その還暦者の呼びかけにも会員の方は尽力くださりましたが、現役で働いている方もいるようで、参加者は去年より少ないようでした。それでも、普段はあまりお寺に足を運ばないご門徒もきてくださり、酒を飲みながらいろんな話が出来たことは良かったように思います。