「廃仏毀釈「についてのメモ  その3

  • 2009.03.08 Sunday
  • 01:00
《神仏判然の沙汰が生んだ過激な廃仏毀釈の動き……》

●権現、明神、菩薩などの仏教的な神号の廃止。神社から本地の仏像を廃し、仏具を神社に置くことを禁止した。
これらの政策により、宗教界は大混乱となった。

特に有名なのが比叡山麓坂本の日吉山王社の事件である。慶応4年4月1日(1868年)、日吉社へ120人ほどが押し寄せ、神殿に侵入、仏像、仏具、経典などを破壊した。廃仏毀釈の最初の暴挙である。

また、興福寺でも僧侶全部が神主になり仏像や伽藍を破壊した、五重塔も金具を取ることだけで売られ、焼かれようとした、延焼をおそれた近隣の住民の反対で中止されたという。

これらの動きは全国に広がり藩ごとに強行された。富山藩では領内の1635ほどあった寺を6寺までしようとする凄まじいものである 。伊勢神宮のある地方では、196箇所の寺が廃寺にされ仏像は捨てられたりした。

明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、苗木藩、富山藩、松本藩などである。

特に明治維新を起こした藩では民衆の参加も狂信的で仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、など全てが破壊された。薩摩藩には「かくれ念仏」といわれる真宗の弾圧の歴史があり、それに続いて廃仏毀釈が吹き荒れ、一時は壊滅的な状態に陥ったといわれている。
長崎では、  世紀にキリスト教が入って来たため、長崎の寺のほとんどが焼き払われた。キリスト教徒の町になり、長崎港と茂木港がバチカンに寄進され、事実上は日本ではなくなった時代がある。

今でも九州には有力な大寺はない。
この時、破却、廃寺された寺は全国の半分に登ったという。はっきりした数は把握されていない。しかし、政府にとっても江戸開城の前であり、仏教界の動向が必要な時期でもあるため、過激すぎた首謀者は処罰された。明治まで仏教との下におかれた感のある神職達が、政府に迎合する形で暴発した感じである。

廃仏毀釈は明治初年から4年頃まで荒れたが、廃藩置県の施行と供に徐々に民衆の抵抗に遭い頓挫していった。(廃仏毀釈の例はあとで詳しく述べています)

〈廃仏毀釈と仏教界の衝撃…〉

廃仏毀釈が仏教に与えた衝撃は大きかった。
しかし、出来たばかりの新政府が脆弱な基盤のため、仏教界の協力を必要としていたことも事実である。
両本願寺、特に西本願寺は鳥羽伏見の戦いの前から朝廷に忠誠を誓い、鳥羽伏見の戦いの際には、御所猿ケ辻の警備を命じられた。また、東本願寺は戦いの前に朝廷側についた。
維新政府にとって両本願寺からの莫大な献金はありがたかった。太政官が真宗各派にたいして廃仏の意志のないことを明言したのである。真宗は神仏分離や寺領上知(じょうち)の影響を受けなかった、ただひとつの宗教である。
廃仏毀釈の吹き荒れた地方でも真宗の寺は抵抗した。
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