8月9日 『非核非戦法要』の案内



長崎駅前に程近い筑後町、真宗大谷派長崎教務所の境内地に原子爆弾でなくなられた身元不明の一万体とも二万体ともいわれるお骨が入っている『非核非戦の碑』があります。
そのよこには”共に生きよ”との碑文も刻まれ、二度と「戦争はするな」という原子爆弾によって亡くなられた人々の悲痛な叫びを言葉にしたものです。

長崎教務所では毎月9日には原爆定例として、法要を行っています。


長崎教区ではこの61年間この悲惨な戦争を風化させてはならないという思いで毎月・毎年9日には欠かさず法要を勤めてきました。

8月9日1:30より長崎教区の法要としてはとても重要で意義深い法要として『非核非戦法要』が厳修されます。
どなたもぜひお参りください。


 毎月の法要に訪れるひとはほんの僅かです。それでも必ず毎月お参りに来る方もいます。

 かつて”焦土”と化した長崎の町の記憶は、人々の中で、遠い過去のことになりつつあります。そんな記憶を忘却するかのように、近年では「二度と過ちは繰り返さない」と世界に誓った憲法を改訂し、また戦争の出来る国に退転しつつあるように思えてなりません。

この国がまた同じ過ちを繰り返すかもしれないこの時代に、「非核非戦」という言葉がどれほど、この現代という”闇”を照らしているか、そのことを私たちは今一度、他人事ではなく、自分の生活の中にあって、そのことを深く考えなおさなければいけないのではなでしょうか。





『非核非戦』の碑について
 
 ここに一万体とも二万体分とも推定されたお骨が収納されています。このおぴただしい数のお骨は、昭和二十年(一九四五年)八月九日、米軍が投下した原子爆弾の直撃をうけて亡くなった身元の分からない方々の遺骨です。
 被爆した長崎の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく屍が、道路の脇や川底などに夏日に晒され累々と横たわっていました。
 家族を捜し回っている人々の町に進駐してきた米軍は、爆心地そばの浦上川沿いに飛行場を造る計画を立てます。
 こうした惨状を憂えた人たちが、とにかく爆心地付近の死人を何とかしようと、給い始めました。やがて、西坂にあった教務所(当時は「東本願寺長崎説教所」と呼んでいた)の婦人会は、昭和二十一年(一九四六年)三月六日、教務所長の呼びかけに集まり、市郊外の門徒同志にも応援をたのんで人数が増えていきます。
 作業は長崎駅あたりから始まって大橋・住吉方面へ向かいます。水を求めて川の中に打ち重なったままの死体、あるいは半分は腐って半分は白骨になった者など途方もない数です。廃材を集めてはできる限りは荼毘に付す。食べ物に窮して痩せた体で荷車を牽き、そして急きょ仮設した教務所に集めるという毎日の作業でした。そのうち復員してきた僧侶も加わります。現在平和祈念像が建っている丘にあった長崎刑務所では、窓に向かって寄りかかったまま息絶えた白骨の群を見ました。そして作業が終わるころには秋風が吹いていたそうです。
 市の収容施設に引き取ってもらうことを計りましたが、そこも膨大な遺骨の山に手つかずの状態でした。その後も噂を聞いた人々によって持ち込まれた遺骨も加わってさらに量は増えます。置き場に困って収容先を捜し回りましたが雨露をしのげるようなところはなく、困り果てた末に一時は大浦の妙行寺の本堂に預かってもらいました。ところがそこも被害を受けていたため雨漏りがひどく床が抜けたりでどうにもなりません。結局教務所に仮安置の場所を設け、二十六個の木箱に納めて責任をもってお預かりすることになったわけです。
 一体この、出身地も名前も不明な人々はどういう人々なのか、今も知ることができません。
 私たち真宗大谷派長崎教区は、この物言わぬ人々の前でなすすべもなく、とにかく毎月九日には法要を勤め営んで来ました。そして十年ごとには県内外有縁の人々が集まっての法要も勤めてきました。また、五十年間の歩みの中で、一体これらをどのように処遇すべきかと、色んな議論をも重ねて来たのですが、なかなか結論が見つからないまゝ、長い歳月を経てしまいました。
 しかし、この半世紀の時代を費やして、私たちが識ることになった一大事があります。
 それは、ついに原子爆弾という核兵器までも作り出してしまった人間の知恵の愚かさです。そして、その知恵の無明の闇が生み出す罪の深さです。
 死者たちはこの人間の知恵の愚かさを、哀れみ、悲しんでくださっています。その悲しみの声は実際の耳には聞こえません。しかし心の耳を澄ます時、戦争にたおれた方々が「非核非戦」と叫んでおられます。
 今日、碑の建設に意を決した私たちは、『非核非戦』を碑文の銘としました。そしてさらにその声は、「”我だけ”が地上の主人公になるのでなく、あらゆる命と”共に生さよ”」と願ってくださっています。
 ここに永い歳月をかけて私どもが聞き取った死者から出ずる慈悲の声を石に刻んで、真の平和を希求する人間の世に公開いたします。
真宗大谷派 長崎教区
 
※この縁起文は、資料が乏しいため、当時を知る方々の聞き取り調査を基に作成したものです。

コメント

初めて知りました。そのようなところにあるんですね。
今度行ってみようと思いました。

  • ま〜ちゃん
  • 2009/08/14 16:30

長崎に行く度に原爆資料館や岡まさはる記念館に行きます。
それが戦後生まれで原爆を知らない世代の私たちの責任だと思っています。
今回萬行寺さんのHPにて「非核非戦の碑」のことを初めて知り、そのような事実があることは想像はしていましたが、実際に原爆でなくなって身元不明の人のほ骨はもう出遇うことはないと考えていました。
今度長崎を訪れた際には必ず行ってみようと思いました。

  • ごま
  • 2009/08/14 18:41

初めまして、ゆーよと申します。
私の母は被爆しています。私は実質的には2世になりますが、いまだに原爆症で苦しんでいる方のことを他人事とは思えません。

人間の知恵の愚かさを、哀れみ、悲しんでくださっています。その悲しみの声は実際の耳には聞こえません。しかし心の耳を澄ます時、戦争にたおれた方々が「非核非戦」と叫んでおられます。

ということばがとてもよかったと思います。
戦争は心の問題です。兵器をなくすことが目的ではありません心の問題ですね。兵器をなくすことは第一にせねばならないことですが、それが目的になってはいけないと感じます。
その心が変わらなければ、また同じことを繰り返すのでようね。

  • ゆーよ
  • 2009/08/14 19:43
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