非核非戦の一日

晴れ蝉たちが力一杯鳴いて今日も賑やかな一日だ。
8月9日に雨が降ったという記憶はない。
きっと62年前の今日も同じような、うだるような猛暑だったのでしょう。


11時2分、鐘をつく。 それ!国豊安民 兵戈無用  正覚大音響流十方!←これ梵鐘の銘

そんな暑さの中、長崎教務所において「非核非戦 -共に生きよ-」というテーマで法要が厳修されました。



62年前に焼き尽くされた荒野に横たわっていた身元のわからない遺骨。一説には二万人とも、三万人ともいわれるおびただしい数の遺骨は、当時の門徒たちの手で長崎市内のいたるところから長崎教務所に集められ、非核非戦の碑の中に納められています。







その碑の前で勤行。

その後本堂で阿弥陀経を読授。




 その中で、6月に就任したばかりの教務所長が表白を読みあげました。
「思うに核兵器の出現は、人間の無明の闇を露呈した知性の悲劇であります。我々は今、寂(ひそか)に「非核非戦」と呼びかけられ、「※兵戈無用(ひょうがむよう)の世界に共に生きよ」との災死者の叫びを、この時代のただ中で能(よ)く聞き開くべきであります。
 今日の人間の危機は物欲の尽きることのない自我に迷わされて仏智を疑い、帰依三宝の生活を失ったことにあります。この危機に気付く時は、今を措いてありません。願わくは、相共に聞法精進して、本願のまことを聞思する御同朋御同行の僧伽(さんが)が形成されんことを仏祖の威徳を讃え、敬って申し上げます。」
                ※兵隊や武器を持っていても、戦が起こらないので用をなさない状態。
講師は、第二組真連寺住職の寺本温氏。



寺本氏は講題を『善としての平和から真の平和へ』とし、「自分を善とし、他を悪と思う独善の知恵が迷いであって、その迷いに気付かない平和主義が、人間の無明の闇をますます深くしている。
みな平和を願っているが、事実は自らが建てた平和を善とし、その平和を脅かすものに対しては悪と決めつけ、徹底的に攻撃する。こうして我々の自我を中心とした罪福信、
が最終的には原爆を落さしめることとなった。」というお話がありました。

62年前の夏は蝉さえも鳴かない猛烈な夏だったと伝えられています。累々と広がる悲しみに満ちた荒野の中で、名もなき遺骨の主達は何を見、何を感じたのでしょうか。
原発、大臣の失言、政治不信、格差社会、環境破壊・・・・・。そんな行き場を失ったかのような今日の状況を思えば、今まさに非核非戦の碑に刻まれた銘が、真実に「共に生きよ」と我々に獅子吼しているのでしょう。



夕方は、打って変わってコンサート。『非核非戦コンサートin西光寺』長崎市福田町にあるお寺でのコンサート。今年で3年目らしい。

西光寺

海の眺めがいい西光寺
西光寺は眺めがいい。福田の海が見える。




定番中の定番のプロテストソングといえば、これだね。

風に吹かれて/Blowin' In The Wind
by Bob Dylan

どれだけ多くの道を歩めば人は人として認められるの?
どれだけ多くの海の上を泳げば白い鳩は浜の上で休めるの?
どれだけ多くの鉄砲玉が飛んだらそれらが禁止されるの?

友よ、答えは風の中に舞っている
答えは風の中に舞っている

山は海に流されるまで何年存在できるの?
ある人々が自由を許されるまで何年かかるの?
人はどれぐらい顔を背けて知らない振りをするの?

友よ、答えは風の中に舞っている
答えは風の中に舞っている

どれだけたくさん空を見上げれば人には空が見える?
どれだけ多くの耳を持てば人々の鳴き声が聞こえるの?
どれだけ多くの死者が出れば多すぎる人々が死んでしまった
ことが分かるの?

友よ、答えは風の中に舞っている
答えは風の中に舞っている





コメント

非核非戦。はじめて聞く言葉です。
「不戦」という言葉はありますが、なぜ非核、それも非戦なのでしょうか。普通なら戦うことを否定する場合、不戦とするのが一般的だと思うのですが。

いまは平和運動など各地でさまざまな運動が展開されていますが、「非戦」となるとそういったことも反対するというニュアンスにも聞こえてしまいます。
しかし、一方では、お坊さまがたがいう言葉ですから、非戦という言葉にはもっと違う視点で観ておられて、深い意味があるようにもおもいます。

  • かきもと
  • 2007/08/16 17:01

かきもとさん:コメントありがとうございます。これに懲りずにまたメッセージをください。

『非核非戦』という言葉には、「もう二度とあのような争いはおこさない」という我々の決意と、先の大戦で犠牲になられた方々、たった一発の原子爆弾によって尊い命を奪われた方々から、現在を生きているわたしたちに対して「これ以上、人間を退転させるな」というメッセージでもあるのです。

「非核」は、自分の身を恐怖から守るために武器を取るという心の在り方の超克。そういった争いを好んでしまう人間の本来性の超克という意味が「非戦」です。

『非核非戦』という言葉には、『争いにつながるあらゆることを放棄』するという、純粋な願いがあります。
そのことをもってしか解決できない人間存在の根本的問題に向き合うことでしか人類の発展は望めないほどに文明は行き詰まってしまっているのではないでしょうか。


戦争は人間がおこすものです。
その人間とは、この私たちです。
わたしたち一人一人の心のなかに渦巻く欲望が戦争を引き起こしているということでしょう。
人間は誰もが平和を望んでいながら、その平和の理念や思惑があわず、争いをおこしてしまいます。
まさに戦争によって戦争の問題を解決してきた人間の歴史は、まさに戦争はそのままで、平和を求めてきました。

 これまであった方法は一時的な解決方法でしかありません。
未来の世界を生きる子孫にいたるまで、人類が永久に幸せに暮らしていくためには、今を生きる我々がなにかをしなければいけません。非核非戦とは、そのような願いがかけられている言葉です。

  • 2007/08/26 21:55
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