「非核非戦」の碑って知ってますか?





門徒の方の家にお参りに行くと、たまに61年前の夏の話を聞くことがあります。
「原爆が落ちた時に家族は長崎市内に住んどったとですよ。ちょうどそん時はわたしは長崎ば離れとったもんですから、自分だけ助かってしもうた。なんか申し訳なくて・・・でも、家族はどこでどうやって死んでしまったかわからんとですよ、今となっては探しようがなかですけんね。残念です。」
これはあるおばあさんの話です。
その時に長崎教務所の境内地に建っている「非核非戦の碑」のことを話すことがありました。
その方は、いまでも毎月そこで法要が行われていることを知ってとても驚かれていました。
それから、たびたびそういった話が出るたびにそのことを話すのですが、どれほどの方がその碑のことを知っているのかとおもい、このブログを書いてみようと思い立ちました。


長崎駅前に程近い筑後町、真宗大谷派長崎教務所の境内地に原子爆弾でなくなられた身元のわからない一万体とも二万体ともいわれるお骨が入っている『非核非戦の碑』があります。
そのよこには”共に生きよ”との碑文も刻まれています。
長崎教務所では毎月9日には原爆定例として、法要が勤まっています。この61年間勤められています。
8/9には原爆法要としては一年で一番おもい法要が勤まります。
毎月の法要に訪れるひとはほんの僅かですが、なかには必ず毎月お参りに来る方もいます。
かつて”焦土”と化した長崎の町の記憶は、人々の中で、遠い過去のことになりつつあります。
そんな記憶を忘却するかのように、近年では「二度と過ちは繰り返さない」と世界に誓った憲法を改訂し、また戦争の出来る国に退転しつつあるように思えてなりません。

この国がまた同じ過ちを繰り返すかもしれないこの時代に、「非核非戦」という言葉がどれほど、この現代という”闇”を照らしているか、そのことを私たちは今一度、他人事ではなく、自分の生活の中にあって、そのことを深く考えなおさなければいけないのではなでしょうか。





その碑の隣には次の縁起文が刻まれています。

『非核非戦』の碑について
 
 ここに一万体とも二万体分とも推定されたお骨が収納されています。このおぴただしい数のお骨は、昭和二十年(一九四五年)八月九日、米軍が投下した原子爆弾の直撃をうけて亡くなった身元の分からない方々の遺骨です。
 被爆した長崎の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく屍が、道路の脇や川底などに夏日に晒され累々と横たわっていました。
 家族を捜し回っている人々の町に進駐してきた米軍は、爆心地そばの浦上川沿いに飛行場を造る計画を立てます。
 こうした惨状を憂えた人たちが、とにかく爆心地付近の死人を何とかしようと、給い始めました。やがて、西坂にあった教務所(当時は「東本願寺長崎説教所」と呼んでいた)の婦人会は、昭和二十一年(一九四六年)三月六日、教務所長の呼びかけに集まり、市郊外の門徒同志にも応援をたのんで人数が増えていきます。
 作業は長崎駅あたりから始まって大橋・住吉方面へ向かいます。水を求めて川の中に打ち重なったままの死体、あるいは半分は腐って半分は白骨になった者など途方もない数です。廃材を集めてはできる限りは荼毘に付す。食べ物に窮して痩せた体で荷車を牽き、そして急きょ仮設した教務所に集めるという毎日の作業でした。そのうち復員してきた僧侶も加わります。現在平和祈念像が建っている丘にあった長崎刑務所では、窓に向かって寄りかかったまま息絶えた白骨の群を見ました。そして作業が終わるころには秋風が吹いていたそうです。
 市の収容施設に引き取ってもらうことを計りましたが、そこも膨大な遺骨の山に手つかずの状態でした。その後も噂を聞いた人々によって持ち込まれた遺骨も加わってさらに量は増えます。置き場に困って収容先を捜し回りましたが雨露をしのげるようなところはなく、困り果てた末に一時は大浦の妙行寺の本堂に預かってもらいました。ところがそこも被害を受けていたため雨漏りがひどく床が抜けたりでどうにもなりません。結局教務所に仮安置の場所を設け、二十六個の木箱に納めて責任をもってお預かりすることになったわけです。
 一体この、出身地も名前も不明な人々はどういう人々なのか、今も知ることができません。
 私たち真宗大谷派長崎教区は、この物言わぬ人々の前でなすすべもなく、とにかく毎月九日には法要を勤め営んで来ました。そして十年ごとには県内外有縁の人々が集まっての法要も勤めてきました。また、五十年間の歩みの中で、一体これらをどのように処遇すべきかと、色んな議論をも重ねて来たのですが、なかなか結論が見つからないまゝ、長い歳月を経てしまいました。
 しかし、この半世紀の時代を費やして、私たちが識ることになった一大事があります。
 それは、ついに原子爆弾という核兵器までも作り出してしまった人間の知恵の愚かさです。そして、その知恵の無明の闇が生み出す罪の深さです。
 死者たちはこの人間の知恵の愚かさを、哀れみ、悲しんでくださっています。その悲しみの声は実際の耳には聞こえません。しかし心の耳を澄ます時、戦争にたおれた方々が「非核非戦」と叫んでおられます。
 今日、碑の建設に意を決した私たちは、『非核非戦』を碑文の銘としました。そしてさらにその声は、「”我だけ”が地上の主人公になるのでなく、あらゆる命と”共に生さよ”」と願ってくださっています。
 ここに永い歳月をかけて私どもが聞き取った死者から出ずる慈悲の声を石に刻んで、真の平和を希求する人間の世に公開いたします。
真宗大谷派 長崎教区
 
※この縁起文は、資料が乏しいため、当時を知る方々の聞き取り調査を基に作成したものです。
コメント
トラックバック
この記事のトラックバックURL