雑感。モジモジしたら書きたまえ3

<悲しみの深さの中に 共に出遇える世界のあることを知る。>

 

近な方を亡くすのはとても悲しい。その別れが受け入れ難いことであればあるほど、私たちはいつまでもそのことを忘れることができません。

 

き人とのご縁を「有り難かった」といただけるお別れあり、また若くして亡くなった我が子のことをおもうと、ポロポロと涙が出て止まらなくなる人あり。(我が子だけではないのでしょうが・・・・)

そこで「いつまでも悲しんでいられない」と立ちあがって、その悲しみを仏法に投げかけてみるけれども、聞法してもそのご縁が「有り難かった」とは受け入れられない。それももっともです。

 

どうにもならんというが、どうにもならぬことはどうもせんでいいのであります。自然なのであります。それをどうかせねばならぬと思っているのがはからいで、そのために暗いのであります。どうにもならんことは暗いのではない。それはどうにもしないでいいことなのであります。(仲野良俊)

 

をなくして見送る悲しみはどこまでも深いのでしょう。しかし、見送られる方の立場に立って想像してみれば、そういつまでも泣いていも困るのではないかと思うのです。

そして、その悲しい気持ちを一体誰がなぐさめてくれるのかといえば、やはり先立って亡くなっていかれた子より他には誰もいないのだといえます。だから、「そう悲しまず、どうぞ親不孝の罪を許して仏法を聞いてください」というのが亡くなっていかれた方々の切実な願いなのではないでしょうか。

 

子をたすけるのではなく、子にたすけられる私なのです。

 

そこに親子が「共にたすかっていきたい」という”人間の本有の願い(本願)”を互いに念じあっている。だからこそ、「その悲しみを縁として、悲しみを超えた世界に共に出遇って欲しい」と十方世界の彼方の仏から願われている存在が私たちなのです。

 

亡き人を案ずるあなたが 亡き人から案じられている  (廣瀬 杲)

 

こういただかれた時、手を合わせるこころの中に新たな世界が開けてくるのでしょう。(釈大攝)

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