雑感 この心のモヤモヤはなんだろう

<ニンゲンに成るということ>

 日曜学校を毎週していると色んなことや感じることがよくあります。最近、私の子どもの頃とは、取り巻く生活環境などが大きく変化しました。それらが子どもたちの成長にどのような影響を及ぼすのかなということを考えています。

 少なくともいつの時代にあっても、若い時代の感受性豊かな頃に感動したことや感じたことがその子の人生のベースになっていくことはよく言われることです。これは間違いのないことでしょう。それだけに少年期や幼児期の心の問題は大変大事な問題があるのだなということをあらためて感じています。

 私は以前より、日曜学校に来る子どもの中に「何か求めているものがあるな」ということを感じることがあります。

萬行寺日曜学校は毎週日曜日の9時から始まりますが、集まってきた子たちに特別な何かをしている訳ではありません。毎週必ず正信偈のお勤めをして仏様のお話を出来るだけするようにしています。その後はそれぞれお昼まで遊んで帰る。ただこれだけのことですが、それでも子どもたちは毎週やってきます。やって来る子の中には、自分は毎週行きたいけれど、塾や習い事があるのでたまに来る子もいました。もちろん日曜学校は出入り自由。いつ来てもいつ帰ってもいいのです。ただ一つだけルールがあって最初に来た時に仏様に手を合わてお念仏することだけを忘れなければOKです。

 そうして毎週やって来る子ども達に触れてみると、それぞれの心の中にあるモヤモヤとしたものを感じているようすが分かります。ある意味で、それは人間に成っていくための大切なプロセスとして健全で大切なものですが、それだけにモヤモヤしたものを一つの縁として出遇うべきものに出会って欲しいものだと思います。それがお寺というものの役割なのですから。

 

<仏伝に学ぶこと>

 あらためて考えてみると、いまさらながら恥ずかしい事なのですが、その心のモヤモヤは釈尊の少年時代や青年期の様々なエピソードの中に大切なヒントがあるのだと昨今気づきました。例えば有名な「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の物語は、若き釈尊が「老病死」という苦に出遇って人間の事実を見るというストーリーですが、この物語が伝えるもう一つの側面は、青少年時代には皆このような人生の根本問題が次々と押し寄せて来て、誰もがモヤモヤとする時代であるということを伝えています。そのモヤモヤを一定の解決をみないまま大人になるのか、あるいは解決は出来ないものですが、その時点の答えをもって大人になっていく、その二つの差は雲泥の差があるのではないかと思うのです。今日そのようなことを問える場を持っているか、いないかは大きな違いです。

 

<何かを求めている>

 随分前のことですが、あるご家庭に祥月命日のお参りに伺った時のことです。その家庭は必ず年に一回、家族全員が揃って祥月命日をお勤めをするたいへん熱心な御門徒の一家です。ある時、そこの家のお孫さんがその日の命日が習い事の日に当たっているというので、ご両親は祥月の命日よりも習い事の方を優先させました。そのお孫さんが出かける前に「今日はお勤めの方にでたいから、習い事に行きたくない」と言っているのを押し切って習い事にご両親は行かせていました。わたしは折角日曜学校に縁もあったので「この子は何か求めているものがあるな」と感じていましたし、こんなご縁を頂くことが他の家庭では滅多にない事だけに、大変残念だと感じました。

 このような出来事は平時よくある事ですが、そのことを一概に批判はしてはいけません。その時のお孫さんのご両親の選択としては、ベストの選択だと感じられたのだと思います。

 今日の「子どもたちは忙しい」というようなことを我々大人はよく言いますが、そのお孫さんのご両親もたいへん教育熱心で、たくさんの習い事をされているようでした。

 これはなかなか難しい選択です。私としては「仏法を聴聞する事は人生にとってとても大事です」と声を大にして言いたい。しかし、それは大事だと頷いてはじめてわかる事。仏法に頷けるご縁が整うまでには随分と時間とタイミングが必要なのです。逆に頷けるようになってみれば、世間の雑事よりもっと大切なことがら、本当に尊いことがあるとわかるようになります。

 仏法で「世の雑事」と言われていることの多くは、今日であれば「世渡り術」であることが多いように感じます。確かに塾に行ったり習い事をする中にもたいへん有意義で大事なことが沢山あります。しかし、子どもたちの心の問題に対して仏法は習い事のような即効性はありませんが、一人の人間を長い目で見ると、「ほんとうの人間なる」という意味においてはたいへん重要なことであるとおもいます。つまり仏教でよくいわれる「本当のニンゲンに成る」と表現される事柄は、その時のその子のこころの問題であるだけに見過ごされがちなのです。ある意味で成長の過程、人生の経験としてそれら(ほんとうの人間になる道)をどこで担保されるのかということを考えると、現代社会では少々不安をおぼえます。今日の時代、宗教教育がなされるのはお寺をおいて、まず他にはありません。

 

<自分の少年時代を考えてみた>

 人はなぜ死ぬのか、死に往く身でありながら、なぜ生きるのか。これが仏陀釈尊の青少年時代の問いであったと伝えられています。ほんとうに深い問いです。そのような事に応えうる教えに若い頃に出遇えるか否かは、その後の人間形成に大きな影響を及ぼすのではないかと感じます。自分の少年時代を考えると、日曜学校で釈尊の物語を聞いて、いたく感動した日のことを今でも鮮明に覚えています。

それは「農耕祭の逸話」といわれる物語で、生と殺の矛盾を綴ったものです。

 

 農夫が牛を鞭うって田を鋤いていきました。虫たちは地上に放り出され、急いで土の中にもぐりこもうとしますが、それを見ていた小鳥がさっと飛んできて虫をついばんでいきました。あっと思って見ていたら、今度は鷹が飛んできて、その小鳥を捕まえたのです。その様子に、少年釈尊は、「あわれ生き物は、互いに食みあう」と悲しんで、閻浮樹の下でひとり寂かに瞑想した。

 

という話です。この青年時代のエピソードは農夫→牛→虫→小鳥→鷹という、いわば食物連鎖ですが、この「互いに食みあう」といういのちの事実が抱えている根源的な矛盾、つまり自分が生き延びるためには他を殺さずにはおれないという「生・殺」の問題をどう捉えていいのかわからず悶々としていた頃の私のこころに釈尊の問いが見事にマッチした瞬間でした。「その気持ちわかる!自分と同じ悩みだ!」という共感の喜びによって仏法がずっと身近になり、とても安心したことを覚えています。

出来うるならば、そのように日曜学校にやってくる子たちも受け取ってくれれば本望だと思います。

 

<再び、何かを求めている>

 これまで語ったことは日曜学校にくる子どもたち全てがそうであるわけではありませんが、毎週来ることを考えると、少なくとも何か感じるていることがあるのだと思います。わたしは大人よりも子どもの方が本当のことが通じると思っています。できるだけ本当の話をしようとこころがけています。大人の場合は話に何らかのオブラートや比喩がなければ伝わりにくいのですが、子どもの場合はそのような周りくどい表現はいらず、むしろストレートに本当のことを本当のまま語ることが子どもには伝わるのだと思っています。そういうことですから、「子どもだから」という容赦はかえっていらない。わたしは法蔵菩薩の物語を語るようにしていますが、大人は蘊蓄が多く話すのが難しいのですが、子どもの方が飲み込みが早いしずっと話しやすいと感じます。余計な解説や説明よりも、物語そのだけで子どもには十分伝わります。それは子どもが大袈な表現ですが、

 

「人心の至奥より出づる至盛の要求」(清沢 満之)

 

といった大人が忘れたものを問うているようにわたしは感じます。(了)

 

 

 

 

 

 

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