報恩講終了後(翌朝) お浚い 2020年1月29日

 じつは報恩講はこれで終わりではありません。といっても昨日で一応終了したのですが、萬行寺では翌朝の晨朝を「お浚い」としてお勤めしています。

この「お浚い」とは、報恩講の全日程と片付けが終わり次第、平常の荘厳に戻されて勤められます。

通常、お勤めは六首を1組として勤めますが、報恩講の結願だけは「如来大悲の恩徳は」までの三首で感動的に終わることになっています。そのあとの半分は「お浚い」として別に勤めます。ここに面白い仕掛けがあるのです。

一週間のお勤めですから、終わったあとの爽快感と達成感は格別です。しかし、次の三首からは「仏智疑惑和讃」といわれている如来の智慧を疑う罪の重いことを知らせる和讃がしばらく続きます。その一首目が『不了仏智のしるしには』です。”如来よりたまわりたる信心”を自分の手柄にするような我々の心を言い当てているかのような和讃です。そのような仏智の不思議を疑う者は疑城胎宮にとどまり、三宝を敬うことなく罪福をいのる行者だと言い切られています。すごい言いようですが、まさにしかり。究極のところは罪福信をたよりにして自分の欲望を満足させることしかできないと言うことでなのです。

この和讃の順番はいつも「よくできているな」とおもいます。その中でも特にお浚いの和讃はよくできているなと感心させられます。

まるで「これで報恩講が終わったと思うな。それは大きな勘違いだぞ」と戒められているようです。「自分はちゃんと修行したんだ」という充実感が、いつでも驕慢心(自らを誇るこころ)に変わるぞ。という戒めのような和讃です。これをもって本当の意味で報恩講が終了になり、これから来年の報恩講へ向けての準備がまたはじまります。

<お浚いの和讃>

不了仏智のしるしには  如来の諸智を疑惑して  罪福信じ善本の     たのめば辺地にとまるなり

 

仏智の不思議を疑いて  自力の称念このむゆえ  辺地懈慢にとどまりて  仏恩報ずるこころなし

 

罪福信ずる行者は    仏智不思議を疑いて   疑城胎宮にとどまれば  三宝にはなれたてまつる

 

 

 

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