報恩講六日目 日中 2020年1月27日

 1月 27日(晨朝)    

先、総 礼

次、文類正信偈 草四句目下

次、念 仏   濁三

次、和 讃(正像末 三)

 初重「菩提をうまじきひとはみな」

   「正法の時機とおもへども」

 二重「自力聖道の菩提心」

   「三恒河沙の諸佛の」

 三重「像末五濁の世となりて」

   「超世無上に攝取し」

次、廻 向   世尊我一心

次、御 文  「御正忌」    五帖目十一通

次、総 礼

 

 1月 27日(日中)    

先、総 礼

次、文類正信偈 行四句目下

次、念仏讃   濁五三 

次、和 讃(正像末 四)

 初重「淨土の大菩提心は」

   「度衆生心といふことは」

 二重「如来の廻向に歸入して」

   「彌陀の智願海水に」

 三重「如来二種の廻向を」

   「彌陀智願の廻向の」

 五遍反

次、廻 向   願以此功徳

次、改悔文

次、総 礼

 

 

日中の法話は老院です。

今日の時代は憶念がなくなった時代です。時間をかけてじっくり考える余裕のない時代です。次から次に目まぐるしく移り変わる中で何が大事なのか、何をしなければいけなのか考えている猶予も余裕も持てないというのか、持たされないとでもいえばいいのでしょうか。

一昔に比べれば人間の生活はますます欲望追求の世の中になってきているように感じます。

自力の回向ということは、極論を言えば自分の要求・願望を神々に祈願することとも言えるでしょう。その自力心に対して如来は大悲の心でもって衆生を救おうとされるのです。この如来の「大悲心」の大悲とは、サンスクリットではKranaといい、「呻く」という意味です。如来が衆生の心を知って呻いているのです。「なんということを考えているのだ」と。この空虚な衆生のこころを悲しんで、そのような心しか持ちえないのはなんとも哀れだと憐愍し、なんとしても救おうと如来の方から本願を興されたのです。だから私たちが努力して救われようとすればするだけ願望を満たすことが幸せに近づく道であると思っていますので、さらに欲望を激くしていくのです。

この衆生の救い難い相を親鸞聖人は「正信偈」に

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 

と示されています。

 

 

 

 

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