報恩講五日目 2020年1月26日

 報恩講の仏華は一年かかって育てます。山に200本近くの松苗を植えます。植えた松の枝がのびきってしまうと使い物になりませんし、背が高くなると使いにくいのです。一年に2・3回は剪定をして報恩講に備えています。

勿論その他の法要でも仏華は必須で華方さんには年に4・5回はお寺の仏華を立てていただいてます。

ですから華材は常に使えるように準備が必要です。そのためには日頃からの手入れが欠かせません。

 特に報恩講は松一式で立てるということもあり、幹作りから始めるとなるとずいぶん手が入りますし、普段の量に比べると倍近くの松が必要になってきます。

その他、普段でしたらカイズカイブキやイソシバやハランなども使います。

境内にない場合はあちらこちらで調達し、なければ花屋さんにお願いしたりと前準備もいろいろあります。そのため、華材となる木を所有している方や山を持っている方々など、色々な人に予めお願いしておくことなど、常に華材に目を配っておく必要もあります。

1月 26日(日中)    

先、総 礼

次、文類正信偈 行四句目下(赤節譜)

次、念仏讃   濁五三 

次、和 讃(高僧 六)

 初重「いつゝの不思議をとくなかに」

   「彌陀の廻向成就して」

 二重「応相の廻向ととくことは」

   「還相の廻向ととくことは」

 三重「論主の一心ととけるをば」

   「尽十方の無碍光は」  

    五遍反

次、廻 向  願以此功徳

次、改悔文

次、総礼

 

今日は日曜。

日曜学校にやってきた子どもたちも一緒に参詣しました。子どもにとっては新鮮なのでしょうね、一緒に文類正信偈を元気な声でお勤めしていました。

日曜日には子どもたちも当たり前に参詣している。現代では考えられない光景かもしれませんが、そんなことができればいいなと勝手に想像しています。

参詣席から日曜学校の子どもたちの「なんまんだぶつ」の声がよく聞こえていました。大人たちにはどのように聞こえたかな・・・。

昨今では、児童教化として年に一回、教区の事業として「こども報恩講」が大人とは別に勤められています。これは子どもたちにとって大変意義深く大事な集いです。

教区の集いではできないことを一般寺院で行うことが大事ではないかと考えています。そこで萬行寺では、あえて大人と子どもを分けず、子どもと大人も一緒に同じ法要にお参りする。そんな環境づくりができないだろうかと常々考えています。大人の真剣な眼差しを見て子どもたちはなんと思うのか。なかなか難しいとは思いますが、やるだけの価値はあるように思います。

 

←子どもの真宗聖典の落書き。「如来の名、我が浄土」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                        名前の南無阿弥陀仏→

子どもってちゃんとご法話聞い反応しているんですよね。

大人はすぐに「どうせわからんから聞かせても・・・」といいますが、仏法は毛穴から入るのです。

 

一般の報恩講に子どもたちも参詣する事によって、いろんな刺激があるものです。子どもは子どもなりに難しいお話を静かに聞いてますし、大人は大人で聴聞している。子どもってよくお話を聞いているものです。

かえって大人の私たちが学ばせてもらうことが多いのです。

 

 

 本日の日中のご法話は役僧の三澤さん。

今回このようなテーマが設けてありますが、ここにある「私の願い」とはなんでしょうか。私は何を願いとして生きているのか。仏は苦悩の衆生を救うと言うけれど、私は救われたいとは思っていないのが事実ではないでしょうか。

自分の声を聞くことがなくなった。

ー聞法ノートー

<「聴」と「聞」>

「聴」とはこの私の耳で聴く。これは「私の分限」です。

それに対して「聞」というのは「聞こえてくる」ということで、これは「如来の分限」なのです。この「分限」とは身の程ということです。

 

浄土思想の起源は時空を超えた仏陀の正覚と人間の心の奥底に潜む永遠の願い(人間の本願)との 蓋相応するところにある。つまり弥陀の本願を信じて浄土に往生するという浄土教の根本義は、弥陀の本願と衆生の本願が相応一体となる感応道交するところに立つ(築山修道『鈴木大拙の浄土思想』)

 

 

 1月 26日(逮夜)    

先、総 礼

次、正信偈   真四句目下

次、念仏讃   濁 五 

次、和 讃(高僧 十六 源空和讃)

 初重「專修のひとをほむるには」

   「報の淨土の往生は」   

 二重「男女貴賤ことごとく」   

   「煩悩にまなこさへられて」

 三重「彌陀の報土をねがふひと」

   「極惡深重の衆生は」   

    五遍反   

次、廻 向   我説彼尊功徳事

次、改悔文

次、総 礼

 逮夜のご法話は役僧の林田さんです。

 如来は私の根本の願いに応えてくれている。しかし、私たちはその根本の願いが自分の願いであるにもかかわらず、わからない。

むしろ自分の願いを自身の欲望満足と捉えています。つまり自分の思いの延長線で願いや救いということを考えているということですね。

 如来の願いは抜苦与楽(ばっくよらく)です。苦しみを抜いて楽(ねが)いを与えようとされているのです。つまり苦しみを抜くということが楽(ねが)いを与えるということなのです。そのような形でもって我々の根本の願いに応えているのです。

 

<つれづれメモ>

<2020年報恩講 テーマ>

 還相回向  仏の願いは私の願い/私の願いは仏の願い

 

●「仏の願い」・・・・私たちの思いを満たしてくれる為にあるのではない。

●「私の願い」・・・・私たちが望む望まざるに関係なく、人間存在そのものが願っている事。

 

コメント

聖典の落書きがめちゃくちゃいいですね。お子さん話をよく聞いていますね。「仏法は毛穴から入る」とよく言われますよね。それにしてもいい味出しています。落書きの域を超えていますね。

  • たもん
  • 2020/06/15 23:55
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