今月の遇願洞

帰敬式実践運動伝達講習会にておこなわれた柘植闡英師の『帰敬式について―帰依三宝の行儀―』という講義録を輪読しました。


A>帰敬式を受式していただくために、門徒さんにはいろいろな話をする。しかしおおよその人は死んでからいただくものと受け手めている人がおおい。でもよくよく考えてみると、死後の名前でもいいんじゃないだろうかとふと思うこともある。浄土教は「死後往生」という概念もあるから、生きる苦しみを超えて浄土に生まれるのだから、そういう意味で言えば死後に法名をいただくということもあってもいいんじゃないだろうか。

B>「死後往生」「現生正定聚」ということについては、これまでずいぶん話してしたのできたけれど、そのこのところの扱いは非常に難しいと思う。

A>ん。そこまではあえてふれないとしても、帰敬式を薦めるとき、「法名は死んでからもらうのでは意味がない」とまではいわないけれど、それに近い言い方をしているように思う。そう聞いて生前にご縁のなかった人を送る遺族の気持ちはどうだろうかと思う。もちろん基本は生きているうちにいただくものだけれど、これまで自分は「生きる意味」とか「生きる」ということを闇雲に強調してきた。しかし、よく考えてみると「死後の往生」ということが頭の片隅にないままに話していたように思う。おおよその人が法名は死後の名前と思っている人が多いのだから、なおさらそのことはある意味で重要なポイントかもしれない。そうでなければある意味現世利益を説く典型的な現代の新興宗教と変わらないような気がするのだけれど、このことはどうだろうか。

C>あえて現世利益を強調する必要はないけれども、利益という意味では、もっと堂々と現世利益を語っていいんじゃないかと思う。現世利益和讃ということもちゃんと親鸞聖人はかいているのだから。そこで帰敬式を受式するご縁になって出発点になるならそれでいいと思う。もっと堂々と語っていいと思う。

A>もちろん曽我先生が言われているように、「信心のないものは浄土には往生できない」ということを忘れて死後往生を取り沙汰するならば、その時にいう現世利益は現生正定聚や真宗の教えとは違ったものになるだろうと思う。でも、それ以前に、もっと単純な問題として法名が死後の名前と思い込んで疑う余地のない人に、生きているうちに法名をいただきましょうということをどうやって伝えていったらいいんだろうか。

C>だから、そこのところは現世利益和讃に書いてあるようなことをいえばいいんじゃないだろうか。しかもそれをおそれずに言わなきゃね。

B>柘植闡英師のテキストには、教行信証の化身土の巻は親鸞聖人の教えを詳しく知らない人や迷信といったものに夢中になっている人たちが真宗の教えに興味を持ってもらうための聖人の親切だと書いているけれど、そう思う。だから、だからいきなり頭ごなしに「それは間違っている」「それはだめだ」などと言ってはいない。

E>もう一つは、「おそれずにいうという」ということなら、逆に新興宗教と呼ばれる人たちは堂々としてる。良いとか悪いとかは度返しにして、自分の信じることを伝えようとしている気持ちはぼくらよりも強いかもしれない。そういう意味では真宗の坊主なら真実の教えと親鸞聖人が言われているのだから、もっと自信を持って語るべきだと思う。


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E>遇願洞で真宗同朋会運動を学習しようということだけれど、自分たちは本当に同朋会運動を学ぶつもりがあるのかと思う。実際、おそろしい運動だとおもう。だって、真宗のお坊さんって言っていることとやっていることがバラバラじゃないだろうか。偉そうに言ってるけれど、自分も含めてよくこれだけのことが言えるなと思うことを平気で語ってたりする。そういう悪いところも良いところも全て表に曝け出して、みんなで考えようって言うのだから、とてもおそろしいよね。










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