罪という問題(社会的罪という視点)

ところでみなさんは現在の日本は治安がよくなっていると思いますか?
それとも悪くなっていると思いますか?
実は日本では犯罪の質こそ変わりましたが、犯罪件数そのものは減少傾向にあります。犯罪が多かった頃の約半分近くまで減っていることが警視庁の犯罪白書を見るとわかります。
しかし、その一方ではメディアの犯罪報道の激化により、犯罪率は年々減少傾向にあるにも関わらず危機意識が高まっているといわれています。その現象はオウムのサリン事件以降顕著になっています。

日本ではこの数年、死刑の判決や執行が増え、この十数年厳罰化が進行しています。
また、世界的にいうと刑務所に収容される囚人の数が多くの国々で増加し、「囚人爆発」とも呼ばれる現象がおこっています。それによって暴動や感染症の拡大などの問題が噴出し、いまや世界的な問題となっているようです。日本でも例外ではなく、刑務所の過剰収容も問題になっています。この10年間で死刑囚は2倍増に増え少年による凶悪犯罪が相次いで刑事処分の対象となる年齢は16歳から14歳へと引き下げられました。そういったことがかえって厳罰化の傾向に拍車をかけていると云われています。
それから社会的な現象として、善悪の感覚が二極化してきたことによると分析する人もいます。この善悪の二極化は、やはりオウム事件以降顕著になってきたといわれています。


一方、アメリカでは「スリーストライク制度」という法律を採用している州が多いようです。これは三回犯罪を犯せば三回目は終身刑か死刑といったような大変重い刑罰になる制度だそうです。世界でもっとも受刑者が多いアメリカは全米で230万人。いまや成人の100人に1人の割合にのぼっているそうです。アメリカで受刑者が急増したのは、いまから30年近く前。1980年代のこと、低所得者層が住む地域を中心に南米から安いクラックコカインが大量に流入したためでした。中毒者による犯罪が激増し、この頃から殺人や虐待など凶悪事件の恐ろしさをメディアが盛んに社会問題として伝えられるようになってことに由来しているとみる人もいます。
そうした煽りに呼応して「犯罪者は厳罰に処すべきだ」という世論が高まり、凶悪犯罪でなくても犯罪を3度繰り返すと厳罰に処すという「スリーストライク法」が導入されたということです。それから16年経ちましたが、減るどころか、その数はさらに70%近く増加し、今では収容人数の2倍もの受刑者であふれているそうです。それにともない刑務所内では感染症の多発や、殺人や放火、暴動に発展することも珍しくなく、刑務所の環境は悪化の一途をたどっているとききました。

ということで、現在、世界のグローバルスタンダードは犯罪者への刑罰をより厳しくする「厳罰化」の流れとなっています。
凶悪犯罪を犯した受刑者の多くは、貧困状態におかれ、経済的、家庭的に恵まれない環境で育ち、十分な教育を受けておらず、いわば犯罪を犯さなければ生きていけない状況におかれている人が多いとも言われています。そして、一度服役すると社会復帰は困難だといわれ、再就職もその多くができず、同じ犯罪を犯してまた戻ってくるといわれています。問題はそのような一度犯罪を犯した人を受け入れる社会がないということだろうとも思います。そして、その人はなぜこのような犯罪が起こるのかという根本原因の追究がまず大事なのではないでしょうか。

ヨーロッパにおいては逆に軽罰化の取り組みをしている国が多いそうです。
ノルウェーやフィンランドは厳罰化とはまったく逆の政策を取り、それによって劇的に治安がよくなり犯罪が減ったともいわれています。つまり、「厳罰化イコール治安がよくなる」とは言えず、むしろ逆のことが起こっているというのです。

こうしたなか、世界でもっとも“囚人にやさしい国”として注目されているのがノルウェー。
かつては少年犯罪は再犯率90%にまで達していたそうです。そこで1970年代後半に刑法を抜本的に見直し、犯罪者を社会から隔離するのではなく、逆に社会復帰させるために社会に出す方法が更正を行うことにしたそうです。それには「参審員」と呼ばれる一般の市民が大きな役割を果たしていて、それに選ばれれば犯罪者が置かれた社会状況や家庭状況などを理解し、厳罰を下すことに慎重になるといわれています。「参審員」を経験した一般市民の多くが、犯罪へと追い込まれていった社会的な背景を目の当たりにすることによって、問題となる状況に置かれることで「誰が犯罪をおかしてもおかしくない」「自分と犯罪者は同じ人間に過ぎない」と思い至るそうです。


このことを考えると罪を犯した者に対して厳罰をあたえることがはたして本当に社会を安寧にできる方法なのかという疑問もおこってきます。
日本人が一般的に思っていることは、犯罪をおかす人たちはとても凶暴で邪悪な人たちなんだということです。だから社会から隔離しなければいけないと思ってしまう。これが仮想敵国の論理と同じなのです。
人はみな犯罪者になりたくて生まれてくるのではありません。犯罪者がはじめから凶悪な心を持って生まれてくるわけでもなく、出来うることなら、善良で人を傷つけたりせずに幸せに行きたいと願っているものでしょう。

すべての人間は人間である。こうしたあたり前のことを人は忘れがちで、犯罪者をモンスター化してしまいがちです。人間は「環境の産物」といわれるように、環境によって人生はさまざまに違ってくるのです。個々の犯罪者の固有の素養よりも社会的な環境によるものの方が大きいということを今ひとつ考えなければなりません。


親鸞聖人の言葉で有名な言葉があります。

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。
                  <「歎異抄13章」真宗聖典p633〜634>

といわれ、自分の日頃の行いや心がけがいいから人を殺すような犯罪をおこさないですんでいるということではない。
人は環境によっては、生きるためにどのようなことでもしてしまう”業”(ごう)というものをもっているものだ。といわれています。


コメント

ニルス・クリスティの本はとてもおもしろい。

  • 2010/03/26 18:01
トラックバック
この記事のトラックバックURL