報恩講4日目

いよいよ中日。
日中で岡本先生の法話が終わり。
岡本先生の法話はこれまで話してきたことのまとめ。
教典で言うところの「流通文」(るずうぶん)にあたります。

式次第
<晨朝> 7:00~
  文類正信偈  草四句目下
  念仏讃    濁三
  和讃     『本師龍樹菩薩は』
  廻向     世尊我一心
  御文     「三箇条」

式次第
<中日中>10:00~
  文類正信偈  文類正信偈 行四句目下
  念仏讃    濁五三
  和讃     『生死の苦海ほとりなし』
  廻向     願以此功徳
         『改悔文』    

=====<献立>======
     
     カレー
     生野菜
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夜は親鸞聖人の御生涯の物語が書かれた絵巻物が拝読されます。この絵巻はいわば聖人のひ孫にあたる覚如上人の親鸞伝といったところでしょうか。

御伝抄は宗祖親鸞聖人の曾孫にあたる第三代覚如上人(かくにょしょうにん)が、聖人の遺徳を讃仰するために、の33回忌にあたる建仁2年(1294)、その生涯の行蹟を数段にまとめて記述された詞書(ことばがき)と、数段の詞書に相応する図絵からなる絵巻物として成立しましたが、写伝される過程でその図絵と詞書とが別々にわかれて流布するようになり、この図絵の方を「御絵伝(ごえでん)」、詞書のみを抄出したものを『御伝鈔(ごでんしょう)』と呼ぶようになりました。
御伝抄は上下巻ありますが、二巻読むと時間がかかるために萬行寺では上下を二年に分けて拝読しています。今年は下巻。拝読者は役僧さんの三澤師です。

本堂の照りを消し、ロウソクの明かりのなか、親鸞聖人の生涯が書かれた御伝鈔が運ばれ、荘厳な雰囲気で拝読されました。



こんな装束を付けて御伝鈔を運んできます。


その後は御伝抄絵説きです。

御伝鈔絵説きは林田師です。絵の部分は本堂の内陣とよばれるところの一番端のところに掛けられています。その絵を一つ一つ解説していただきました。
親鸞聖人が命終様子を娘の覚信尼(かくしんに)が関東に住む恵信尼の元へ手紙を出している内容に触れてはなされました。
親鸞聖人の最後は普通の人とどこも変わることもなかったと記され、その様子が偉人や聖者としての終り方でなかったことがかえって皆を安心させ、念仏して生きる道がどのような人にも平等に開かれた開かれた無礙の一同であると身を持って示された姿でしたと語られました。



来年は前半が拝読されます。





御伝鈔は古文なので、格調は高いのですが内容がなかなか解りづらいのいで、現代語訳を載せておきます。


親鸞聖人伝絵 下

第一段

浄土宗が生まれ盛んになり、聖道門(聖者になることを求める伝統仏教)は衰えていきました。
そこで奈良や比叡山の仏教の学者たちは「正統な仏教ではない念仏を法然が広めて人心を惑わしている。だから処罰するように」と、怒って訴えたのでした。
親鸞聖人は『教行信証』化身土巻に次のように書き記しています。
「静かに考えてみると、伝統的な仏教である聖道の諸教は、いつのまにか生き生きとした生命を失い、理屈だけの学問に変わり果て、もはや苦しみ悩む人々を救うような力をなくしています。唯一、浄土真宗だけが今の時代にあって人々の心に命を取り戻させる道として機能し、生きています。

けれども、他宗の仏教徒は、仏教を正しく理解しておらず、本当の仏道を知らないし、京都の学者も仏道の正しい方向を見失っている。そのような状態なので、承元元年(1207年)、興福寺の僧侶たちは後鳥羽上皇と土御門天皇に念仏の禁止と弾圧を願い出たのでした。《=承元の法難》
そのために浄土真宗を明らかにして下さった法然上人と、その弟子の数名は、朝廷から非道にも死罪に処されたり、あるいは僧侶の資格を剥奪され島流しにされたのでした。
私(親鸞)も処罰を受けた一人です。従ってもはや朝廷から認められた僧侶ではないが、俗世の垢にまみれ腐っている人間でもない。
私は朝廷お抱え仏教の弟子になったのではなく、お釈迦様の教えに帰依した者だから、以後、禿(=坊主頭という意味)の字を苗字に名乗ります。
法然上人や弟子たちは別々に辺ぴな田舎に隔離され、五年間もそこで暮らさなければなりませんでした。」
法然さまは土佐の国に流され、親鸞聖人は越後の国に流罪となりました。その他の弟子たちの死罪・流罪については省略します。
1211年になって勅免された(=天皇から罪が許された)時、親鸞聖人は先に述べたように、禿の字で署名した上申書を出したところ、陛下は深い感銘を受け、侍臣たちも大いに褒めたそうです。

罪は許されたのですが、親鸞聖人はすぐに京の都に帰らず、念仏の教えをひろめるためにしばらくの間越後の国に残ったのでした。

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親鸞聖人伝絵 下

第二段


親鸞聖人は1262年11月下旬になって体調を崩されてからは、ただ阿弥陀如来の深いご恩への感謝だけを口にし、無駄口をせずひたすらお念仏を称えておいででしたが、11月28日、とうとうそのお念仏の息が途絶え、お釈迦さまの故事になぞらえた北枕で西を向き右脇を下に横たわった姿勢でその一生を終えられました。九十歳でした。
遺体は終焉の場所の京都の押小路の南・万里小路の東から、はるばる鴨川の東側の道を通って東山のふもと・鳥部野の南にある延仁寺に移されて火葬にされ、同じ東山のふもと・鳥部野の北の大谷という所に遺骨は納められました。
親鸞聖人の最期に間に合った門弟たち、あるいは聖人から教えを受けた人々は、それぞれ親鸞聖人の在りし日をしのび、聖人亡き今を悲しみ、慕い泣き伏すのでした。

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親鸞聖人伝絵 下

第三段


文永九年(1272年)の冬、東山の大谷にあった親鸞聖人のお墓を、同じふもとの西、吉水の北のほとりに移し、お堂を建てて聖人の御真影を安置しました。
この時から聖人の教えが再び本格的に広がり始め、聖人ご生前の昔をしのぐ盛況ぶりとなりました。
信者は国中に満ちあふれ、念仏の教えはさらに隅々まで行き渡り、念仏に帰依する者は数限りないありさまです。
その真実の教えを大切なものとして敬い、聖人への感謝の気持ちを押さえ切れない人々は、出家者、在家、老若男女を問わず、みなこの親鸞聖人の廟堂へ参詣に訪れるのでした。
親鸞聖人の生涯には他にも様々な逸話があってが数え切れないほどですが、ここでは省略させていただきます。
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