2009.08.09 Sunday
8月9日という日/非核非戦法要
今年もこの日がやってきました。毎年この日が来るたびに、あの日も同様にじりじりと焼ける日差しだったのかと想像します。
長崎教区がこの64年来、忘れえぬ念いとして大切にしてきたテーマである『非核非戦』。ここ爆心地から5キロほど離れた筑後町にある東本願寺長崎教区教務所の境内地には『非核非戦』と書かれた碑があり、ここには1万体とも2万体分とも推定されているおびただしい数の身元不明の被災者の遺骨が納められています。ここで64年来、毎月欠かさず法要が営まれてきました。
しかし、昨今では参詣者の数も年々減ってきています。教区内の僧分の原爆に対する認識も変わりつつあります。
『非核非戦』
この言葉は原爆の惨劇を目の当たりにした先師方が、あの焦土の中から紡ぎだした被災者の声なき声でした。
今日、声高に叫ばれている核廃絶への道は、核兵器そのものをなくすことが全ての解決策ではありません。無論、早急に核兵器を廃絶し、武器のない世界を創出しなければ、人類の未来は暗いものになるでしょう。そういった意味でもその第一歩を踏み出すことは大事です。
しかし、最も問題なのは武器をなくしても、それを造り出すような人間の心を放棄しなければ、真の意味で問題の解決にはならないという事です。
これまで長崎教区が大事にしてきた『非核非戦』という言葉の本意は根本の問題を提示しています。それは我々人類が原弾を落としてまでも自らを鼓舞しようとする人間の無知と無明の知恵に『非』と問うて、人間を真に解放したいと願っている如来の呼び声なのです。
しかし、その事実も時間の経過とともに忘却の一途を辿り、再び同じ過ちが繰り返されようとしています。
この「忘却」は、原爆の被災者を二度殺すほどの暴力であるという事を、私たちは再び心に刻まなければなりません。
とても大事なことです。
忘れてはいけません。
この「忘却」は、原爆の被災者を二度殺すほどの暴力であるという事を、私たちは再び心に刻まなければなりません。
この言葉は厳しい言葉ですが、全くその通りだと思いました。