報恩講を終えて

「聞法」という言葉があります。これは法を聞くことです。人間をすくう「用き(はたらき)」それが「法」です。
人間は迷う。自分自身の考えから迷わされている。その自分を迷わしている考えから離れさせるはたらき、それが仏の法、すなわち「仏法」です。
なぜ聞法するか、それは自我に迷わされているからです。迷わされているときは迷っていることもわかりません。これはとても危ない状態です。
迷っていることがわからないまま、「頑張れば必ず悟れる」と思う。迷っている状態で頑張れば、迷いは倍増し、ますます迷いは深くなります。これが危ないということです。
親鸞聖人は『教行信証』の「信の巻」の序文に、このように記しています。

しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、
定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。

                        -真宗聖典p210-


迷っている自覚がないまま、「頑張れば必ず悟れる」と思うことの危なさに気づいていない。
すなわち「自力の行者」に対する警告です。

人間は真実に触れないかぎり、自分が迷っていることに目が覚めません。真実に遇わない者が世の中を良くしようと思っても、良くなるはずがありません。

仏法は真実を説いています。真実の法を説くのが『大無量寿経』です。この法を聞けば自分が迷っていることに目覚めることができます。自分の迷執の危なさに気づくことができるのは『大経』の真実に遇う以外にはありません。

「ただ聞いていさえすれば」救われる、というのではありません。
『大経』は真実を説いた経典である。このことを信じることがないまま、ただ聞きさえすれば・・・というのではありません。
自我に迷わされていることの恐ろしさを知るには『大経』が説く法に遇うことです。
こう云われた親鸞聖人の生涯に深く感謝できる「一人」になることが願われている。
これが「報恩講」という聞法の仏事です。
来年も再来年も、ずっと続けてゆこうと決心しています。
                                      住職

報恩講レポート ー最終日・御満座ー

いよいよ最終日。

きょうの朝の萬行寺は日曜学校で始まりました。
子供たちの賑やかな正信偈が聞こえていました。



法座は、さすがに御満座だけあって、これまでより参詣者が多かったようにおもいます。
高先生のお話は、双樹林下(そうじゅりんげ)往生を離れる、でした。親鸞聖人の”来光は諸行往生にあり”という文を教行信証から引かれてそのことに関連させて、人間のエゴが地球全体を被い無明の闇が広がっている。
先生は始終「皆様とともに考えていきたいと思います」と繰り返しながら話されました。

そのあと、お斎をいただき、みんなで片付けをして解散しましたが、華方は華を生けていました。

これで終わったのではなく、真宗の生活の始まりです。そういう意味では、まさに新年ではないでしょうか。
明日のお朝事の和讃は、"仏智疑惑和讃”です。

報恩講レポート ー大逮夜ー

夜は萬行寺報恩講のメインイベント、雅楽入りのお勤めです。
この日のために、萬行寺の役僧さん二人は練習を重ねてきました。
今日の夜は賑やかでした、総勢20人(ぐらい)での雅楽入りのお勤めでした。
当初は集まらないと聞いていたので、急遽連絡を入れて来てもらった人もいましたが、思ったより集まり、賑やかで楽しい勤行だったと思います。自然相和会の皆さんありがとうございました。

勤行は、いわゆる信心の身体表現。言葉で語れないことを詩や踊りや絵で表現するように、勤行も体を使って全身で仏の教えを表現するものです。
自分の信心がそのまま曝け出される。日頃の自分が試される。そういうものではないかと思います。

高氏の話は、そのお勤めにインスパイアされたのでしょう。お話は念仏する”体を作る”という
こと、念仏を相続するとは、ただの伝統を継承するのではない。というお話でした。

報恩講レポート ー26日ー

今日から高史明氏のお話。夜は岡百合子氏のお話。
親鸞聖人の教えと現代を切り結ぶ接点はなにか、現代にあって、なぜ浄土真宗なのかというお話でした。「生死出ずべき道」ということを中心に現代に広がる闇、そして自分を中心にものを見るという人間の在り方について熱を込めてお話いただきました。
本来、人間を解放するものであったはずの教育・科学が、いつの間にか、自我という人間の煩悩を帯びて、暴力的なまでに膨れ上がるこの時代。共に念仏して生きるとはどういうことか、親鸞聖人のいわれた、「生死出ずべき道」とは、人間の知恵では超えていけないものであり、仏の教えに立たなければ、決して見えてこない真実である。

夜は岡先生。朝鮮・韓国と日本の歴史、その中にある日本人の朝鮮民族への蔑視感と先入観。
戦国時代から現代の中に薫習されてきた日本人の歴史観。やはり自分中心にものを見るということを感じました。

報恩講レポート ー中日ー

いよいよ中日。
日中で岡本先生の法話が終わり。逮夜は「御伝鈔」拝読と若院、わたくしめの法話です。
 岡本先生の法話はこれまで話してきたことのまとめ。教典で言うところの「流通文」(るずうぶん)にあたります。仏法を謗っている自分のすがたに目覚めさせる法蔵菩薩のあゆみは、自己を照らしだされるあゆみであり。それは諸仏・善知識に逢うことによってはじまっていく。という話でおわりました。

逮夜は御伝鈔。
本堂の照りを消し、ロウソクの明かりのなか、親鸞聖人の生涯が書かれた御伝鈔が運ばれ、荘厳な雰囲気で拝読されました。
御伝鈔は報恩講の中日に読まれます。今年は前半を読みました。来年は後半です。
そのあとの法話は、主に親鸞聖人の出生から比叡山を下り、六角堂参籠をへて法然のもとへいくまでを話しました。
親鸞聖人の生きた時代と、現代を生きる私たちとどう違い、なにが同じか、そしてなぜ浄土真宗が未だに相続されてきたのかということ、そこに「同時代人」としていきる親鸞聖人の息吹を感じ、報恩講を勤めるという意義について話しました。

報恩講レポート ー3日目ー

一週間の報恩講もいよいよ明日で中日に突入。やっと折り返しです。

初日の前日の夜を(萬行寺では21日)初逮夜(しょたいや)、中日の前日(24日)の夜を中逮夜(ちゅうたいや)、最終日の前日(27日)の夜を大逮夜(おおたいや)、最終日(日中)を結願(けちがん)といいます。

お芝居は、お昼の公演をマチネー、夜の公演をソワレ、などという呼び方がありますが、お寺の場合は昼を「日中」、夜を「逮夜」と呼んでいます。




きょうの話は、『我見・邪見』ということを中心に話されました。
「己が善根とす」というように、念仏を利用して善人になっていこうとする。そのような、「教えを自分流に解釈する、教えをねじ曲げて聞く」自分中心的な在り方についてです。

1 信心念仏 無上涅槃
2 経道滅侭 慈悲哀愍特留此経止住百歳
3 仏にあう 教えを聞く 教えの如く生きる

信楽(しんぎょう/教えを聞く喜び)を受持することのむずかしさということのなかに、五濁の「見濁」を導きだし、18願の唯除の文を引き、法話をされました。


報恩講レポート ー2日目ー

二日目は、夜の参詣人は少なめでしたが、お昼は賑やかでした。
お話は、昨日に引き続き、「無量寿経巻下」の文を中心にしたお話です。

(以下はメモより一部抜粋)
◎真実をつかもうとしても、つかめない。真実の方からやってくる。
◎真実それ自体があなたのところにはたらく、真実でない者に、真実ははたらく。
◎信心とは、こころのふかいところを明らかにし、照らしだすもの。
◎如来が私に施してくれた道が、わたしが趣き求める道になる。


 如来とは、”来るが如く”と書きます。真実の方からやってくるということは、真実が真実でないわたしのもとにやってくるという意味です。
 そこで思うのは、本尊に手を合わせる時に、つい下を向いたり、目を閉じたりしてしまうのは、目の前にある本尊、阿弥陀如来(真実)が目の前に現れているのに、その姿を見ず、自己を中心にし、自分のなかにある、”不確かな自分”に頼ろうとする相(すがた)なのではないかと感じました。そこに、真実に生きる事ができない自らを照らしだす「信心」というものが必要になってくる。そして、そこに「自己とはなにか」という”人生の根本的問い”が生まれてくる。そう感じました。                (大攝)

報恩講レポート ー初日ー


いよいよ始まりました。

お昼のお勤めは、伽陀・登高座がはいり、普段の三濁(みつゆり)より重く音程も高い、五濁(いつつゆり)、ハイトーンでのお勤めでした。
今日の法話は、日中は住職、夜から25日の日中まで岡本英夫先生です。

岡本先生は丁寧に、「無量寿経巻下」の最後の部分、
善知識に遇い、法を聞きて能く行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。このゆえに我が法、かくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う。応当に信順して法のごとく修行すべし。」聖典P86
というところについて、なぜ「難中之難」なのか、「かくのごとし」とはどういうことか、一文字一文字の意味、言葉の使い方、親鸞聖人の受け取り、そしてなぜこの教典が無上涅槃(真実)に至る道であるのか、について丁寧に話してくださいました。        (大攝)

報恩講レポート ー準備最終日ー

きょうは報恩講準備の最終日。
今日の人数は40人、お華束と華がやはり時間がかかります。

一つずつチェックしながらやっていきます、こうして手間をかける事によって、受け身ではない、その人一人一人の主体的な報恩講になるのではないかと思います。

そのあと、打ち上げをしました。
囲炉裏端でにぎやかな声が遅くまで聞こえていました。

明日は日曜日、さらに年忌・法事を済ませた後、萬行寺の法務員全員で境内と本堂の掃除・荘厳をし、報恩講に備えます。

報恩講レポート ーもちつきー

今日はもちつきでした。
浜田と浦郷の門徒さん総勢約70人で、お華束(おけそく)用の餅6000個と、お華束をつくりました。
まさに人海戦術です。お昼には作業が終わり昼食を食べて解散しました。



そとではもちをふかしていました。

報恩講レポート ー華方ー

報恩講の華立てでした。今日は夕方までかかったようです。あしたもあさからです。
ご苦労様でした。
門徒はスタッフ。お客は、如来・聖人です。
如来聖人を迎えるこころとはどういうものか、と考えます。
そこで、つくづく感じるのは、報恩講とは、日頃のわたしのこころが試されている法要だということです。




今日もおつかれさまでした。
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