罪という問題(社会的罪という視点)

ところでみなさんは現在の日本は治安がよくなっていると思いますか?
それとも悪くなっていると思いますか?
実は日本では犯罪の質こそ変わりましたが、犯罪件数そのものは減少傾向にあります。犯罪が多かった頃の約半分近くまで減っていることが警視庁の犯罪白書を見るとわかります。
しかし、その一方ではメディアの犯罪報道の激化により、犯罪率は年々減少傾向にあるにも関わらず危機意識が高まっているといわれています。その現象はオウムのサリン事件以降顕著になっています。

日本ではこの数年、死刑の判決や執行が増え、この十数年厳罰化が進行しています。
また、世界的にいうと刑務所に収容される囚人の数が多くの国々で増加し、「囚人爆発」とも呼ばれる現象がおこっています。それによって暴動や感染症の拡大などの問題が噴出し、いまや世界的な問題となっているようです。日本でも例外ではなく、刑務所の過剰収容も問題になっています。この10年間で死刑囚は2倍増に増え少年による凶悪犯罪が相次いで刑事処分の対象となる年齢は16歳から14歳へと引き下げられました。そういったことがかえって厳罰化の傾向に拍車をかけていると云われています。
それから社会的な現象として、善悪の感覚が二極化してきたことによると分析する人もいます。この善悪の二極化は、やはりオウム事件以降顕著になってきたといわれています。


一方、アメリカでは「スリーストライク制度」という法律を採用している州が多いようです。これは三回犯罪を犯せば三回目は終身刑か死刑といったような大変重い刑罰になる制度だそうです。世界でもっとも受刑者が多いアメリカは全米で230万人。いまや成人の100人に1人の割合にのぼっているそうです。アメリカで受刑者が急増したのは、いまから30年近く前。1980年代のこと、低所得者層が住む地域を中心に南米から安いクラックコカインが大量に流入したためでした。中毒者による犯罪が激増し、この頃から殺人や虐待など凶悪事件の恐ろしさをメディアが盛んに社会問題として伝えられるようになってことに由来しているとみる人もいます。
そうした煽りに呼応して「犯罪者は厳罰に処すべきだ」という世論が高まり、凶悪犯罪でなくても犯罪を3度繰り返すと厳罰に処すという「スリーストライク法」が導入されたということです。それから16年経ちましたが、減るどころか、その数はさらに70%近く増加し、今では収容人数の2倍もの受刑者であふれているそうです。それにともない刑務所内では感染症の多発や、殺人や放火、暴動に発展することも珍しくなく、刑務所の環境は悪化の一途をたどっているとききました。

ということで、現在、世界のグローバルスタンダードは犯罪者への刑罰をより厳しくする「厳罰化」の流れとなっています。
凶悪犯罪を犯した受刑者の多くは、貧困状態におかれ、経済的、家庭的に恵まれない環境で育ち、十分な教育を受けておらず、いわば犯罪を犯さなければ生きていけない状況におかれている人が多いとも言われています。そして、一度服役すると社会復帰は困難だといわれ、再就職もその多くができず、同じ犯罪を犯してまた戻ってくるといわれています。問題はそのような一度犯罪を犯した人を受け入れる社会がないということだろうとも思います。そして、その人はなぜこのような犯罪が起こるのかという根本原因の追究がまず大事なのではないでしょうか。

ヨーロッパにおいては逆に軽罰化の取り組みをしている国が多いそうです。
ノルウェーやフィンランドは厳罰化とはまったく逆の政策を取り、それによって劇的に治安がよくなり犯罪が減ったともいわれています。つまり、「厳罰化イコール治安がよくなる」とは言えず、むしろ逆のことが起こっているというのです。

こうしたなか、世界でもっとも“囚人にやさしい国”として注目されているのがノルウェー。
かつては少年犯罪は再犯率90%にまで達していたそうです。そこで1970年代後半に刑法を抜本的に見直し、犯罪者を社会から隔離するのではなく、逆に社会復帰させるために社会に出す方法が更正を行うことにしたそうです。それには「参審員」と呼ばれる一般の市民が大きな役割を果たしていて、それに選ばれれば犯罪者が置かれた社会状況や家庭状況などを理解し、厳罰を下すことに慎重になるといわれています。「参審員」を経験した一般市民の多くが、犯罪へと追い込まれていった社会的な背景を目の当たりにすることによって、問題となる状況に置かれることで「誰が犯罪をおかしてもおかしくない」「自分と犯罪者は同じ人間に過ぎない」と思い至るそうです。


このことを考えると罪を犯した者に対して厳罰をあたえることがはたして本当に社会を安寧にできる方法なのかという疑問もおこってきます。
日本人が一般的に思っていることは、犯罪をおかす人たちはとても凶暴で邪悪な人たちなんだということです。だから社会から隔離しなければいけないと思ってしまう。これが仮想敵国の論理と同じなのです。
人はみな犯罪者になりたくて生まれてくるのではありません。犯罪者がはじめから凶悪な心を持って生まれてくるわけでもなく、出来うることなら、善良で人を傷つけたりせずに幸せに行きたいと願っているものでしょう。

すべての人間は人間である。こうしたあたり前のことを人は忘れがちで、犯罪者をモンスター化してしまいがちです。人間は「環境の産物」といわれるように、環境によって人生はさまざまに違ってくるのです。個々の犯罪者の固有の素養よりも社会的な環境によるものの方が大きいということを今ひとつ考えなければなりません。


親鸞聖人の言葉で有名な言葉があります。

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。
                  <「歎異抄13章」真宗聖典p633〜634>

といわれ、自分の日頃の行いや心がけがいいから人を殺すような犯罪をおこさないですんでいるということではない。
人は環境によっては、生きるためにどのようなことでもしてしまう”業”(ごう)というものをもっているものだ。といわれています。


戒律の疑問

1、戒律について

宗教と呼ばれるものには、信者が守るべきルールがあります。
それを戒律と呼び、宗派や宗教によっては厳しく戒められたりします。
戒律の意味は次のようになります。



・・・・・誓い、【〜しない】
・・・・・ルール、取り決め、規律【〜してはならない】

その中でも最もポピュラーな戒律が五戒(ごかい)といわれるもので、それは五つあります。
五戒の原語はパンチャ・シーラといわれ、現代流に翻訳すると『平和五原則』となります。
これを守ることによって、人間関係などを悪くしないで平和に暮らせる原則ということになります。
        
 不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺しません。
          (汚い・不必要・嫌いなどといって殺す心が問題になる)

 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを取りません。
           (自然のものだからタダだから取っていいという考え方が問題)

 不邪淫(ふじゃいん)  みだらな性的関係を持ちません。  
          (ただの遊び・相手も承諾したからということは許されない)

 不妄語(ふもうご)   嘘をつきません。
          (バレなければいいという心が問題)

 不飲酒(ふおんじゅ)  酒を飲みません。
          (酒を飲んでもバレなければ、事故を起こさなければいい心の有り方が問題。)
<その他の戒律>
     不綺語(ふきご)       無駄な噂話をしません。
     不悪口(ふあっく)      乱暴な言葉を使いません。      
     不両舌(ふりょうぜつ)    他人を仲違いさせるような言葉をいいません。
     不慳貪(ふけんどん)    異常な欲を持ちません。
     不瞋恚(ふしんに)     異常な怒りを持ちません。
     不邪見(ふじゃけん)   (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持ちません。

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<戒律を解く理由>
◎ 人間関係を悪くする。(僧伽を破壊する=破和合僧)
◎ 修行の妨げになる。 (煩悩が増大する)
 


例えば「バレなければ罪を犯してもいい」といってしまえば、自分の心に嘘をつくことになるから、戒(〜しない)を破ったことになる。
心の中で「あんな奴死んでしまえ」と思ったとしても、殺生戒を犯したこととなる。

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<法然上人の疑問>
この戒律の問題に法然上人は疑問を持たれます。「はたしてこれだけのことが自分にできるだろうか、それどころか煩悩を滅そうとすればするほど、煩悩は増大する」と。

ー『選択本願念仏集』による持戒持律の問題ー

もし持戒持律をもって本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望を絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒の者ははなはだ多し。
(乃至)
しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行をもって、往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもって、その本願となしたまへり。」


現代語訳
もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破戒や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。
(中略)
阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人びとに平等の慈悲をおこして、あまねく一切を摂(おさ)め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。



<歎異抄での疑問>
「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」真宗聖典p634

「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひと」はどうなるのだろうか。
そのような人々は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」身であって、罪をつくらなければ生きていくことのできない者、あるいは罪をつくってしまったものはどうなるのか。

「廃仏毀釈」についてのメモ  その5

▼明治以降の「神道」は創り出されたもの

 明治の「神仏分離」や「廃仏毀釈」は江戸時代後期から準備されていた。
まず儒学者の仏教批判に始まり、仏教を排し復古神道を唱える国学者がこれを受け継いだ。水戸藩と長州藩ではすでに天保期に「神仏分離」と「廃仏毀釈」が藩政改革として行なわれ、幕末には薩摩藩と津和野藩で実行されていた。
慶応四(1868)年三月十三日、有名な「五か条の誓文」発布の前日であるが、いわゆる「神仏分離令」が布告される。

 宮中でも「神仏分離」と「廃仏毀釈」が展開される。
ところが、その一年半前の孝明天皇の葬儀は僧侶によって執り行なわれ、泉湧寺に埋葬されていた。
皇霊祭儀が神式に改まるのは、明治元(1868)年十二月の孝明天皇三年祭(三周忌)からである。
それまで天皇葬儀への仏教関与は、実に約千二百年にわたって続いた(もっとも、玉体の火葬自体は1654年の後光明天皇のときから取り止めとなり、以後は儀礼的に火葬しての土葬に改定)。

 宮中には長らく「お黒戸」(黒戸御所)と呼ばれた言わば「仏壇」があり、そこに仏像を安置し、歴代天皇や皇后の位牌が祭られていた。
これが排されたのはようやく明治四(1871)年のことで、やがて泉湧寺に移された。
同時に泉湧寺からは寺内の天皇陵や皇族の墓所が没収され、宮内省に移管された。また、仏教による玉体護持の「後七日御修法」や天台宗の「長日御修法」など宮中の仏教行事も廃された。

 一方、神道神殿の整備がなされる。
明治二(1869)年、神祇官に神殿が設けられた。
かつて神祇官八神殿に奉斎され、その後は神祇官家の白川・吉田家に祭られていた八神[注7]を神殿中央に招き、その西座に歴代の皇霊、東座には天神地祇を奉祀した。
やがて、天照大神を祭る宮中の「賢所」(かしこどころ)そばに神々は集められ、歴代の皇霊は「皇霊殿」に、八神と天神地祇は「神殿」に祭られ、宮中三殿として今に至っている。
同じ頃、伊勢神宮の改組も行なわれた。

玉体の守護と鎮魂を司る八神。御巫(みかんなぎ)祭神八座。神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神(この「産日・ムスビ」五神は天皇の心身の神)、大宮売神・御食津神(飲食の神)、事代主神(言葉の神)。
ここには造化三神のうち天御中主神はなく、またすべてが紀記神話の神でもないことに注意。


 明治以降、皇室は常に国民生活のお手本としてあった。
それは洋装や肉食、さらには大正天皇ご成婚に始まる神前結婚まで多岐にわたる。
しかしながら、信仰生活においてはそうではない。

「廃仏毀釈」についてのメモ その4

〈明治4年「寺領上知(じょうち)の令」〉

 これは古来よりあった寺の領地を全て取り上げ、経済的な面から寺を追いつめた。
古い大寺ほど徳川家を始めとする大名家から寄進を受けていた。
古都奈良の寺や全国の由緒ある寺が一気に食べていく手段を失ったのである。
そのため、寺は内部から崩壊して、神職に走るものや仏像や寺宝を持ち出すものなどが後を絶たなかった。ここからも多くの美術品の流失が始まったのである。僧侶達の動揺は凄まじく、食べるために僧侶を捨てる過激な廃仏毀釈に走ったのである。

 日本型政教分離による国家神道明治4年の欧米を訪問した岩倉使節団は、訪問する各国でキリスト教迫害について抗議を受けた。
明治政府は浦上キリシタンの弾圧を中止し、明治6年キリスト教禁止令が解かれた。
また、各宗派の上に立つという神道はなくなり、明治15年に神官は葬儀に関与しないことになり、僧侶が葬式を行うことになった、已来、葬式仏教と時折揶揄されるようになったのはこの頃からである。

「廃仏毀釈「についてのメモ  その3

《神仏判然の沙汰が生んだ過激な廃仏毀釈の動き……》

●権現、明神、菩薩などの仏教的な神号の廃止。神社から本地の仏像を廃し、仏具を神社に置くことを禁止した。
これらの政策により、宗教界は大混乱となった。

特に有名なのが比叡山麓坂本の日吉山王社の事件である。慶応4年4月1日(1868年)、日吉社へ120人ほどが押し寄せ、神殿に侵入、仏像、仏具、経典などを破壊した。廃仏毀釈の最初の暴挙である。

また、興福寺でも僧侶全部が神主になり仏像や伽藍を破壊した、五重塔も金具を取ることだけで売られ、焼かれようとした、延焼をおそれた近隣の住民の反対で中止されたという。

これらの動きは全国に広がり藩ごとに強行された。富山藩では領内の1635ほどあった寺を6寺までしようとする凄まじいものである 。伊勢神宮のある地方では、196箇所の寺が廃寺にされ仏像は捨てられたりした。

明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、苗木藩、富山藩、松本藩などである。

特に明治維新を起こした藩では民衆の参加も狂信的で仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、など全てが破壊された。薩摩藩には「かくれ念仏」といわれる真宗の弾圧の歴史があり、それに続いて廃仏毀釈が吹き荒れ、一時は壊滅的な状態に陥ったといわれている。
長崎では、  世紀にキリスト教が入って来たため、長崎の寺のほとんどが焼き払われた。キリスト教徒の町になり、長崎港と茂木港がバチカンに寄進され、事実上は日本ではなくなった時代がある。

今でも九州には有力な大寺はない。
この時、破却、廃寺された寺は全国の半分に登ったという。はっきりした数は把握されていない。しかし、政府にとっても江戸開城の前であり、仏教界の動向が必要な時期でもあるため、過激すぎた首謀者は処罰された。明治まで仏教との下におかれた感のある神職達が、政府に迎合する形で暴発した感じである。

廃仏毀釈は明治初年から4年頃まで荒れたが、廃藩置県の施行と供に徐々に民衆の抵抗に遭い頓挫していった。(廃仏毀釈の例はあとで詳しく述べています)

〈廃仏毀釈と仏教界の衝撃…〉

廃仏毀釈が仏教に与えた衝撃は大きかった。
しかし、出来たばかりの新政府が脆弱な基盤のため、仏教界の協力を必要としていたことも事実である。
両本願寺、特に西本願寺は鳥羽伏見の戦いの前から朝廷に忠誠を誓い、鳥羽伏見の戦いの際には、御所猿ケ辻の警備を命じられた。また、東本願寺は戦いの前に朝廷側についた。
維新政府にとって両本願寺からの莫大な献金はありがたかった。太政官が真宗各派にたいして廃仏の意志のないことを明言したのである。真宗は神仏分離や寺領上知(じょうち)の影響を受けなかった、ただひとつの宗教である。
廃仏毀釈の吹き荒れた地方でも真宗の寺は抵抗した。

「廃仏毀釈」についてのメモ その2

明治時代の神仏分離

神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。檀家制度のもとで、寺院に搾取されていたと感じる民衆がこれに加わった。

政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年(1872年)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。

廃仏毀釈運動は、明治以降、第二次世界大戦の敗戦まで、一部の過激な神道家とこれに追随した一部民衆が行ったものの、一部地域を除き、民衆には普及しなかった。
現代でも神社と寺院の違いが判らない者も多いという。
中には神仏習合の風習を受け継いだり復興させたりするところもあるが、神道、仏教のそれぞれの内部では、お互いに忌避するむきもある

《神祇官(じんぎかん)を再興と神仏判然の沙汰…… 》


●明治元年(1868)3月13日、「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が出された。全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれたのである。神社が国民の戸籍を扱う国家機関のひとつとなったのである。


明治政府は、祭政一致を実現するためにも、諸社と諸祭奠の調査を行うことになった。
明治元年(1868)12月20日、「延喜式神名帳所載諸国大小神社」の取り調べを府藩県に命じ、「式外ニテモ大社之分旦即今府藩県側近等ニテ崇敬之神社」についても同様に申し出ることを命じた。


明治2年6月10日の「神職神葬祭」、「神職継目」など主要神社精査に関する通達、その後、15項目に渡る調査票につながるのである。慶応4年3月以降出された「神仏分離」の諸布告である。

『廃仏毀釈』についてのメモ  その1

明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

※(「毀釈(きしゃく)」は釈迦の教えをすてる意)明治初年の仏教排斥運動。1868年(慶應4年)の神仏分離令の神道国教化政策の下で、神道家などを中心に各地で寺院・仏像・仏具・仏典の破壊や僧侶の還俗強制などがおきた。(広辞苑より引用)

 日本における「廃仏毀釈」は、明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元年)3月に発した太政官布告神仏分離令、1870年(明治3年)の大教宣布など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。

 これは決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。

 神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制など急速な実施のために大混乱となった。
1871年(明治4年)ごろ嵐が収まったが、長い間回復は困難であった。

例えば、千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、すべての仏像が破壊された。現在は、修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。
なお公爵や侯爵などの華族の墓地も、仏教方式から神道方式へと強制的に変更させられた。

 王政復古の大号令のもとに明治政府は、神政政治を目指し、神道を国家統合の機関にしようと意図した。
一部の国学者主導のもと仏法は外来の宗教であるとして、それまで大きな勢力を持つ仏教勢力の財産や地位を粛清し、弱体化するように誘導した。
 
 江戸時代までは寺院法度によって禁止されていた僧侶の肉食・妻帯を、明治政府は「肉食妻帯勝手なるべし」と号令し、戒律を犯させることで僧侶を破戒させようとした。

 また僧侶の下に置かれていた神官は政府の威をかりて、仏教の全てを否定し破壊する「廃仏毀釈」運動を起こし、混乱にまぎれて、寺院を破壊し、寺院の土地を接収した。
 また僧侶のなかには神官や兵士となるものや寺院の土地や宝物を売り逃げていくものもいた。国宝である興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、わずか25円(2006年現在の価値で約20万円)で売りに出され、薪にされようとしていた。

 廃仏毀釈が徹底的に行われた薩摩藩では、寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。
その内の3分の1はその後軍属となったため、寺領の没収財産や人員が強兵にまわされたと言われることもある。

 国学の普及による神仏習合への不純視や江戸時代の寺社奉行による寺請制度での仏教寺院を通じた民衆管理への反発が背景にあり、政府主導による神道優位の風潮が影響した。

平田篤胤派の国学や水戸学が盛んであった地域ではとくに仏教排斥の動きが激しく、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、国家神道の発端となった。

いくつかの覚え書きとして



7つの社会的罪     Seven Social Sins

1)理念なき政治   Politics without Principles
2)労働なき富    Wealth without Work
3)良心なき快楽   Pleasure without Conscience
4)人格なき学識   Knowledge without Character
5)道徳なき商売   Commerece without Morality
6)人間性なき科学  Science without Humanity
7)献身なき宗教   Worship without Sacrifice

<ガンジーの碑文より>

頭が痛いかぎりです。まったく。

「聞其名号 信心歓喜」

 信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。
 また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号 信心歓喜」ととけり。
「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。                 <御文 1帖目15通-p776->

今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その4

迷ったことのないものに目覚めるということはない。










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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その3

  助業と正定業

本願名号正定業/本願の名号は正定の業なり   正信偈<真宗聖典p204>

 断惑証理という考えに疑問を抱き、親鸞聖人は比叡山を下り法然聖人の元に行かれます。
その時、法然上人は観経疏を読み専修念仏を首唱してから23年が経っています。年齢は69歳。
その上人の説かれる浄土教は、”煩悩は往生の妨げにはならない”として、「煩悩をかかえていても涅槃を得ることができる」と説かれていました。
それまでの仏教はさとりを開くことが中心だったのに対して、「念仏申せば浄土に往生して仏に成る」といわれ、”一切衆生悉有仏性/一切の衆生はことごとく仏に成ってほしいと如来に願われている”ととかれていました。
 そこには生き物を殺したり、商いをしたりする者や、または武士や公家などが苦難を超える道を求めて来ていたといわれています。
そういった様々な煩悩を抱えて生きていかざるをえない人々に浄土教は広く受けいられていきました。
その法然上人の教えはただ一つ、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏して弥陀たすけられよ」ということでした。

 まさに念仏をするための念仏、つまり称名念仏中心の生活を選びとることを「正定業」とし、その修行を要とされていました。
煩悩が往生の邪魔をして念仏が出来ないようなら、持戒はしなくともよい。むしろその煩悩を友とし、師とすれよい。ということを法然上人はいわれています。
逆に煩悩を断じなければ念仏が出来ないであるようなら、持戒をもって修業すべきであるということをいわれています。
法然上人自身は、著書『選択本願念仏集』の中で持戒(戒律をたもつこと)は雑行であると書かれています。
しかし、その源空上人(法然上人)も比叡山におられた頃も、後に比叡いの山を下りられてからも自らは受戒を怠らず、生涯結婚されなませんでした。

 また、念仏をすることを勧め、その修行を助け、念仏することの意義に目覚めさせてくれるものを、「助業」といいます。
それは煩悩に悩まされる私たちであるからこそ、念仏して生きなければならないことを煩悩に教えられ、勧められる縁になるからです。
我々が日ごろお墓参りをしたりするのも、そもそも念仏の勧め、仏縁にあって念仏をすることをすすめてくれる「諸仏として先祖」として出会えているかということが大事あり、そこで念仏に出遇えないような出会いであればすべきでないと法然上人はいわれるのでしょう。
 
 
 しかし、吉水教団内の問題は、「念仏さえ称えていればどんなことも障りにはならない」として、法然上人の教えを取り違え、平気で悪事を行ったり、「煩悩を断じる必要はない」と言いふらし、かえって教団に対し無用な混乱と非難を引き起こす者もでてきました。
そういった教団内での浄土教に対する誤解や風紀の乱れなどもあり、吉水の教団は既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になったのです。

このことは、その当時だけの問題ではなく、現代を生きる私たちにも共通した問題があるように思います。
”煩悩はどんなに頑張っても消せるものではない。”ということを聞くと、逆に「なにをしてもいい」などと言ってみたり、「どうせ煩悩具足の身なのだから」といって肉や魚を食べても感謝がなかったりする。
例えば、そういった煩悩を抱えて生きざるをえない罪の深い我が身にたいして、どこまでも慚愧なく無自覚であれば、それは吉水教団が混乱に陥った状況と同じことではないでしょうか。







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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その2

前回は親鸞聖人が比叡山での煩悩を断ずる修行についての疑問でした。

では、釈尊の修行とはどういうものだったのでしょう。
しかも、その厳しい修行をした釈尊の教えから、なぜ煩悩を断ぜずして涅槃を得ると親鸞聖人はいえたのでしょうか。

 太子(釈尊)の修行生活は六年の長期にわたった。
極端な断食をはじめとして、心を統制して呼吸を止めるなど、言語に絶する苦行を実修した。
太子の体は枯れ木のようにやせ衰え、生きた屍のようになったが、心が平静となっても、迷妄からの解脱の望みはみえてこなかった。
かくして、そういう苦行一辺倒の修行は、肉体の疲労困憊により、かえって精神の働きを朦朧とさせるだけで、精神を明晰にすることによって、迷妄を断ち切るという目的を達成しうるものではないことを悟った太子は、むしろ、肉体を健全に保つべきではないかと考え、ついに苦行をすてる決心をした。
6年の勤苦の座から、かろうじて身を起こして立ち上がった太子は、ネージャランジャラー河の流れで身を洗い、やっとの思い岸辺に見を横たえ、深い眠りに入った。折しもそこを通りかかった村の少女の捧げた乳粥により、衰えた体力を回復していったのである。


                     東本願寺出版『大乗の仏道』より一部抜粋


そうして釈尊は、煩悩を断ちつくす事によって修行を完成するということの無益さを知るのです。
しかも、そこを通りかかった村の少女の捧げた乳粥によって”食べなければ生きていけない”人間の現実を教わったのかもしれません。
肉体を健全に保つには、食事を食べることが必要です。逆にいえば食事をとらなければ健全な修行も肉体も思考も成り立たないといえるのです。




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