真宗のことば

念仏はかいなきひとのためなり
            「歎異抄」

真宗のことば

生きる喜び、生き甲斐は、私のこころの沙汰ではなく、存在そのものが持っていたことなのです。

             池田勇諦『同朋』

真宗のことば57

出家の人の法は国王に向かいて礼拝せず。六親に務えず、鬼神を礼せず、と。

(盂蘭盆経疏新記)大智律師(元照)の云わく、神は謂わく鬼神なり。すべて四趣・天・修・鬼・獄に収む、と。

『論語』に云わく、季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、「事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」と。

真宗のことば56

あるものをおそれ、ないものをほしがる。これが悪人の問題。       
                   曽我量深

真宗のことば55

人間にとって一番悲惨なことは貧しさや病ではない。
全ての人に見放されていると感ずる時だ。

真宗のことば54

衆生としての救いというのは、苦悩がなくなることではないのです。人間は苦悩しているがゆえに、苦悩がなくなれば救われると思うのですけれども、ただ苦悩がなくなったというだけならば、退屈というより深い問題がかならずそこに出てくるのです。人間の命は、苦悩がなくなっても満たされないものとして生きているのでしょう。逆に人間はともに苦しんでくれる人がいるかぎり、生きていけるのです。いのちは、だからこそともに苦しみ、ともに喜び、ともに悲しんでくれる人との出会いが開かれる世界を求めているのです。国土というものはそういう供会一処の世界、すべてのものがともに一ところに出会う場として願われているのです。
                          宮城顗

真宗のことば53

釈尊は、個人的な能力を自負し、誇示するもの、あるいはまた、その個人の能力を讃嘆し、驚き敬伏するような人々をこそ、人間としての尊さを見失った愚かな者であることを教えられたのです。誰にもできないことができる超人になることではなく逆に、まわりの人々すべての、その人その人の尊さを讃えることのできる心豊かな人、我が身に賜っている命の尊さに頭の下がる人となることをこそ教えられたのです。      
                    宮城顗

真宗のことば52

信心は仏を信ずる心ではなくて、仏の心をいただいた心です。 宮城顗

真宗のことば51

どんなにすぐれた人が立派な悟りをひらいたとしても、その教法が説かれることによって、あらたに悟りをひらく人が生まれ出なければ、それは真実の教えといえない。その真理が人間の事実となって生きてはたらく力にならなければ、それは真実の教えとはいえないのです。   宮城顗

真宗のことば50

どれほど秀れた教えであろうと、教えを受ける人間の現実にそぐわぬときは、ただいたずらに、人を傷つけ、悩ますだけに終わり、結果として、法をもそこなうことになる。 宮城顗

真宗のことば48

今、いのちがあなたを生きている。

人身受け難し、今すでに受く
                             「三帰依文」

 私として現に生ているということは、大きな驚きと感動をもって受け止めざるをえない。
父母を縁として生まれ、自らの人生を生きる中でふと「この自分とは何か」という疑問をもつことがあるであろう。そのとき誰しも人は、真実の自己を求めてこの世を生きる自分自身を根底から問わずにはおれない。正しくいのちが本当に解くべき問いとなって改めて自分に迫ってくる。

真宗のことば47

今、いのちがあなたを生きている。

この身、今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん

一息うちにはいのちが終わってしまうような不確かな生を生きている我々は、このかけがえのない人生の意義を確かにすることがいのちから求められている。