こつこつと50年

 今日は毎年恒例の萬行寺の全相続講員の報恩講。昔から『講あがり』と呼ばれる伝統の法要です。

このいわゆる『講あがり』では毎年、各地区の講頭が「宗門納付金」と「萬行寺護持費」を集めて納入される日で、それに合わせて報恩講が勤まります。

 今回は萬行寺の「同朋会結成50周年記念法要」ということもあり、九州教務所長においで頂き表彰式が行われました。

 

得度式を受式しました。(尽未来祭)

 本日、坊守と長女・次女の3人が真宗本廟にて『得度式』を受式いたしました。

コロナウイルスの感染拡大で京都に行くタイミングを逃してきましたが、この度、ようやく得度考査から2年後の式となりました。子どもたちには学校をお休みして初めての京都。

 大きな御影堂も京都の人の多さも何もかもが初めて事。どうやらくたくたになって帰ってきましたが人生に一度きりの大切な式。いい思い出になったのではないかと思います。

 

これからはどうなるかわかりませんが、どうぞよろしくお願いします。
 

私が10歳で真宗本廟にて得度をした時のことを思い起こしています。記録によると昭和57年の8月5日とありますから、ちょうど40年前のことです。

日曜日は子どもの集い

9時から日曜学校。

今日もいつものメンバーです。

「この頃の日曜学校は楽しい」と言ってくれてありがたいです。

お話は釈尊の出家の動機ともいわれている『四門出遊』の物語。

ちょっと長かったけれど、じっと聞いてくれていましたよ。

子供の頃に耳に入れておくべき話ですね。

こんなちょっとしたことが子供の頃の思い出として残ればいいなぁ・・・・。

 

 

 

 わたくしたちは仏の子どもになります

 わたくしたちは正しい教えを聞きます。

 わたくしたちはみんななかよくいたします。(子どもの三帰依)

  

 

 

 

 

 

おやつの時間。

仏さまにお供えした各自が持ってきてくれたお菓子をみんなで一緒にいただきます。

「みひかりのもと」

 

 

長崎の伝統

この写真も何十年か経てば、あの人もこの人も・・・・。
というふうになるのでしょうか・・・。

 長崎組の秋安居(しゅあんご)が開筵(かいえん)いたしました。コロナウイルス感染症が拡大した影響で2年間お休みしておりましたが今年は少々プログラムを変更して行われました。テーマ『立教開宗に学ぶ』。講題「立教開宗に学ぶ『教行信証』後序を通して」と題し、加来雄之氏にお越しになり三日間にわたってご講義いただきます。

 

 安居とは、元々梵語の「雨期」を日本語に訳したもので、古くはお釈迦様の時代から伝統されてきた修行の形態だそうです。
ンドでは毎年雨期にあたる4月から7月の約100日間、草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動する時期に入るため、遊行(外での修行)や布施行や托鉢をすると無用な殺生をするのを防ぐ目的もあり、その時期だけそういった修行をやめて一定期間一カ所に集まって僧侶が集団で修行する期間のことを安居というのだそうです。
本にも仏教の伝来とともに中国から伝わってきました。現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い安居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)までの間は寺域から一歩も外へは出ずに修行に明け暮れるのだそうです。

 日間、長崎県下からたくさんの住職や法務員・坊守さんが一堂に会します。初日は約50名近く集まりました。長崎組には全部で50ヵ寺の寺院がありますが、その中には法務員さんがおられるお寺も少なくはありません。その法務員さんもこの日は法務は休んでの安吾ですから賑やかなものです。

 旧崎教区の安居は70年以上昔、当時は西坂(現在の長崎駅前の26聖人殉教の地)にあった東本願寺長崎説教場(旧長崎教務所)があった時代に『夏期講習会』として始まりました。夏になると、教区内の住職(当時は住職のみだったそうです)が柳行李を担いで暁烏敏・金子大榮・曽我量深など浩々洞(こうこうどう)の諸師方のお話を聴聞に集まっていたそうです。
 の伝統が受け継がれ、西坂から筑後町に教務所が移転しても相変わらず浩々洞出身の先生方はおいでになられました。曽我量深先生は昭和45年までおいでになられ、翌年の昭和46年に御遷化なさいました。その頃、長崎教区で『秋安居/しゅあんご』と呼ばれるようになりました。

講義風景 『立教開宗に学ぶ』

 

 在では、長崎教区から九州教区長崎組となり会所も佐世保別院で行われるようになりましたが、長崎の伝統として大切にされています。
 来ならば、本講の先生がおいでになってご講義されるものなのですが、長崎の場合は本講の先生方をお呼びせず、自分達の組で聴講したいと思う先生方にお願いしておいでいただいておりますから、いわば純粋な安居ではありません。一時期は本講の先生方を呼ぼうという声もあったそうですが、初心を忘れず現在でも「夏期講習会」のスタイルをとっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安田先生ご夫妻来崎安居
昭和45年長崎教区秋安居の風景。旧長崎教務所
にて。中央がご講師の安田理深氏とその奥様。
向かって右隣が教務所長の加来氏

 

 かつて長崎にご講師としておいでになっていた曽我量深先生が弟子であった安田理深先生にこういわれたそうです。「安田君、あなたもいつか長崎に行きなさい。長崎の皆さんは、威儀正しく墨袈裟を掛けて正座をしているんだ。」とおっしゃったことを思い出しながら「曽我先生に長崎に行きなさいといわれのできておるのだ。」とおっしゃったそうです。

 非常に素朴な受け止め方をしておられます。我々が墨袈裟を掛けていることを曽我先生も、安田先生も非常に大切にしておられましたことを思うと身が引き締まる思いがします。    

 

 

 

 

 

 

今日の掲示板

平和のために銃をとるのが人間ならば、平和は人間のなせることではなく、人間が作り出せるものではない。

成道会(じょうどうえ)

 今日は成道会(じょうどうえ)、釈尊が覚りを開かれた日です。
特別法要はしませんが、仏教徒にとっては大事な日です。

 なぜ釈尊が覚りを開かれたのか。

その覚りには一体どんな意味があるのか・・・・。

 

なぜ人間は諍いあうのか。
 われわれ仏教徒は釈尊成道の意義をよくよく知り深くたずねることが大切なのです。

それが過去の悲しい事実を受け止め、それを乗り越えていく機縁となるのではないかと感じます。

 

お寺にある古いもの1

 やらオンボロで取手も取れてしまっている引き出しですが、これは「薬箱」です。

 現在は紐や電球などを分別して入れるのに重宝しています。まだ現役で活躍しています。

 なんでこんなものがあるのかといえば、昔はお寺で薬や醤油などを作っていたよう(商売をしていたのではありません)で、屋根裏には薬研や薬を調合するための道具がいくつか眠っていたりします。

お寺には色々な役割があったのだそうです。

ちょうど役場や学校、薬局などがなかった時代は帳簿は過去帳に、勉強は寺子屋などで、薬草などを作るのも一つの仕事だったようです。

 私の父が子供の頃、たまに「薬ありますか?」と尋ねてくる人があったと聞きました。時代ですねぇ。

 その尋ねて来た人に「今はもう作っていないんですよ」と答えていたと聞いたことがあります。

 この棚はおそらく江戸時代、もしくは明治になってから頃のものかもしれません。古いもので、いつか綺麗に修理してもっと活用していきたいなと思っています。

永代供養と永代経 その2

1、言葉とは実に面白いものだなあ

 時々、こう感じることがあります。一つの言葉を聞いて具体的に伝わる言葉はいくつもあります。その逆に、ある言葉を聞いてその意味をすぐに受け取りれないものも少なくはありません。その代表といえるのが「永代供養」という言葉ではないかと思います。
 

2、永代供養って?

 皆さんならば「永代」という聞くと何をまず思い浮かべますか? 連想されるものの代表として「供養」ではないかと思います。

 実はこの「永代供養」という言葉が実にバラエティーに富んだ内容の言葉なのです。

お寺には「こちらで永代供養をお願いしたいのですが」・「納骨堂(墓)を探しているのですが、そちらのお寺には永代供養はやっていますか」、「息子たちが遠隔地に出て行って帰ってこないので永代供養をお願いしたい」等、いろんな方から様々な永代供養の連絡や相談があります。

 その尋ねて来られる方のお話を聞いてみてわかることなのですが、永代供養といっても「墓じまい」から「年忌法事」。または「墓探し」まで様々な事柄が「永代供養」という言葉で表現されているのです。そのどれも一つとして同じ内容のものがないといってもいいほどのバリエーションです。

 あまりに内容が掴めませんので、大概は「永代供養とおっしゃっているのはどういう意味で言っているのでしょうか?」とこちらから聞き返すほどです。つまり永代供養と一口でいっても規定や定義が人それぞれでバラバラなのです。見方を換えて言うならば、なんとも便利なニュアンス語であるとも感じます。

 これらを聞いてみて改めて思うのが、世間ではこれと言った定義があるわけではないのだなということです。

ですから、永代供養という言語は「無いようにみえてある。あるようにみえて無い。」のです。

 

3、永代経とは?

 また法要にお参りに来られた御門徒さんが「お寺へ永代経を納めたら先祖供養はしなくてもいいんでしょう?」と尋ねられたこともありました。この方は「永代経」と「永代供養」を混同されているようです。

では、永代経とはどのようなものなのかを尋ねてみたいと思います。

 真宗では『浄土三部経』=仏説 無量寿経(上・下)仏説 観無量寿経/仏説 阿弥陀経の三つのお経が正依の教典であるとされています。この教典(お経)というのは、釈尊の言葉を集めた「現語録」と言ってもいいでしょう。その釈尊の教えに真の人間になる道を学び尋ねる場がお寺(道場)なのです。
<お経の内容>
 釈尊は、生涯にわたって道を歩み続けることを説かれました。ですから、お経にはその釈尊の生前のメッセージが弟子たちの手によって記されているのです。その中には、「どうか阿弥陀仏の説く念仏の教えを聞いて生きるものになってほしい。真実に出遇ってほしい。この経を未来の人々に伝えてほしい」と釈尊は語られています。
<仏法を未来へ伝える>
 その釈尊が説かれた念仏の教えに生きた無量無数の先祖の志を受け継いで、私たちは教典に書かれた真実の教え、念仏の教えに出遇うのことが願われています。

 

4、まとめ

 厳しい言い方になると思いますが、お寺は皆様に代わって永代に先祖の世話をするためにあるのではありません。むしろ皆さんが身近なご先祖とのご縁を通して仏法に出遇うことを勧めるためにあるのです。

「真宗では先祖の供養をしない」とは言いません。そこでもう一度丁寧に考えていただきたいことがあります。

「永代にわたって先祖を供養する」ということを受け止めて深く考えてみますと、先祖が大切に護ってこられた仏法を子孫である我々が相続させていただくのが現代を生きる我々の使命ではないかと思うのです。

「先祖が大事」というよりも「先祖が何を大事にしてきたのか」ということが大切なのではないでしょうか。

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お寺からの案内状、届いていますか?

 法要をお勤めする際、お寺から各家庭に法要に参詣いただくよう案内状を郵送。もしくは各地区担当の方々に配布してもらっています。

当山であれば各地区の講頭こうがしらさんに自分の住んでいる地域の御門徒の家庭に案内状を配布してもらっています。

しかし、悩みどころは現代は核家族。お寺からの案内状が配布した世帯の主たる人に届いても、肝心の別所帯のご家族までは行き渡りません。この日にお寺で「法要が行われている」。そのことだけでも知っていただきたいけれど、このことが一番難しい。

 

まだ行ってはいませんが、手立ての一つとして個人宛の案内状が有効ではないかと思います。

 

お寺から法要の案内状が届いたら、お寺で法要がつとまっている事を(できれば広く)知ってもらいたいと考えています。

 

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sayonara長崎教区

谷派の新年度は実は7月始まりなのです。

昨今、「国際化社会に対応する」ということで4月始まりではなく9月始まりがいいのではということが話題ですが、現在の4月始まりはそれほど古い伝統でもないようです。戦時下における徴兵制度により、「4月はじまり」になったと聞いてビックリしました。

「え?そんな理由?」と思ったのは私だけではないでしょう。

古来日本の新年度は夏の衣替えとともに7月始まりが伝統だったそうです。それも農繁期などを鑑みてのことではないだろうかと想像できます。

ころで話は変わりますが2020年の6月30日をもって長崎教区は長い歴史に幕を下ろし、2020年7月1日より「九州教区 長崎祖」に生まれ変わります。これまで長きに渡って『真宗大谷派長崎教区』と名乗ってきたのですが、まだ実感がありません。

これも時代の流れなのでしょうか。これにあたって様々な組織編成についての会議が縷々急ピッチで行われています。財政の問題や教化の課題などなど、これからもこれまでも問題が山積です。

 

 

お祝いの仏事

 世の中にはいろんなご縁があるもので、本日のお勤めは名目上は一応「厄入り」。

 濱田家の先代の肝っ玉ばあちゃんの仰せ、「とにかく仏法を」・「仏法を聞かなければ本当の人間になれんぞ」という遺言に応えて息子さんの40歳のお祝いとして3代そろって一緒にお勤めをいたしました。

 濱田家は代々仏法にご縁のある家庭で、お父さんの孝則さんは総代さんもつとめていただいています。

 こうやって仏法に近づくのためのご縁であればお安い御用です。いつでもどうぞ。

 

 孔子の論語に
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る

、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

という有名な言葉があります。

 これは孔子が晩年に人生を振り返って言ったことばなのだそうです。これを聞いて果たして人生を振り返ってこのようなことを言える道を歩んでいるのかといえばまことに心許ない限りです。

 一方、現代という時代は、「正しく生きる」ことに誰もが惑っている時代でもあるように思います。逆から言えば「惑うことに恐れをなす」時代とも言えるし、「正しくなければいけない」という価値観が自分を苦しめていることでもあるのでしょう。

 人間には何が正しいのか分からない。だから人は惑う、それは人間の宿業なのでしょう。

しかし、迷わない人間はいないし、迷ったことがない者が正しいということに目覚めるということはありえない。やっぱり、人間は仏法を聞かなければ堂々と惑うことさえできない存在なのです。
 ときにはその「正しく生きたい」というおもいにあやしげな宗教がすり寄ってくることもさえあります。かつて立派な科学者や明晰な学者などがその正しさに惑いある宗教団体に入信したことは多くの人の記憶にあることでしょう。

しかし、迷わない人間はいない。この孔子の言葉は、むしろ迷ってばかりの人生に惑わなくなったということではないでしょうか。

本日はおめでとうございます。

雑感。モジモジしたら書きたまえ3

<悲しみの深さの中に 共に出遇える世界のあることを知る。>

 

近な方を亡くすのはとても悲しい。その別れが受け入れ難いことであればあるほど、私たちはいつまでもそのことを忘れることができません。

 

き人とのご縁を「有り難かった」といただけるお別れあり、また若くして亡くなった我が子のことをおもうと、ポロポロと涙が出て止まらなくなる人あり。(我が子だけではないのでしょうが・・・・)

そこで「いつまでも悲しんでいられない」と立ちあがって、その悲しみを仏法に投げかけてみるけれども、聞法してもそのご縁が「有り難かった」とは受け入れられない。それももっともです。

 

どうにもならんというが、どうにもならぬことはどうもせんでいいのであります。自然なのであります。それをどうかせねばならぬと思っているのがはからいで、そのために暗いのであります。どうにもならんことは暗いのではない。それはどうにもしないでいいことなのであります。(仲野良俊)

 

をなくして見送る悲しみはどこまでも深いのでしょう。しかし、見送られる方の立場に立って想像してみれば、そういつまでも泣いていも困るのではないかと思うのです。

そして、その悲しい気持ちを一体誰がなぐさめてくれるのかといえば、やはり先立って亡くなっていかれた子より他には誰もいないのだといえます。だから、「そう悲しまず、どうぞ親不孝の罪を許して仏法を聞いてください」というのが亡くなっていかれた方々の切実な願いなのではないでしょうか。

 

子をたすけるのではなく、子にたすけられる私なのです。

 

そこに親子が「共にたすかっていきたい」という”人間の本有の願い(本願)”を互いに念じあっている。だからこそ、「その悲しみを縁として、悲しみを超えた世界に共に出遇って欲しい」と十方世界の彼方の仏から願われている存在が私たちなのです。

 

亡き人を案ずるあなたが 亡き人から案じられている  (廣瀬 杲)

 

こういただかれた時、手を合わせるこころの中に新たな世界が開けてくるのでしょう。(釈大攝)