餅つき  御華束(おけそく)

今年も御華束が組まれました。久しぶりでしたがなかなか良い出来栄えです。

報恩講 準備会(新年互礼会)

毎年1月15日は、午後から新年互礼会が開かれます。
互礼会とは、講頭(※1)が一堂に集まり、22日から一週間に渡って厳修される報恩講のにおける諸役や当番などの確認事項を行う新年の総会です。

 新型コロナウイルスの感染症拡大の騒ぎもようやく落ち着きを取り戻してきました。感染拡大の間、様々な対応を余儀なくされ思うような報恩講が勤められませんでした。しかし、その反面考え直すべき事柄についてワンポーズとれたのは大きな収穫だったように思います。考えてみれば、コロナウイルスの感染拡大によって、私たちの有り様を顧みて見直すタイミングとしては最適だったなと振り返って思います。

 この機会に本来「すべきこと」と「すべきではないこと」を見定めた再出発をしたい。とは思っていましたが、そこは伝統社会(お寺)の難しいところ。

 もしこれが一般企業であれば「こうやればいいんじゃない?」とスムーズに事が運ぶと思いますが、それが簡単にいかないのが伝統というものです。しかし逆からみれば、だからこそ良いとも言えることが多いのも事実です。その点は忘れてはならない事だと思います。

 ということで、前振りが長くなりました。

 今回の御例会において、それほど多くはありませんし大きな見直しではありませんが、現状(少子高齢化など)から出来ることを

の幾つか改良しました。

 

1、年間の「おみがき」(仏具みがき奉仕)の回数の改訂

2、法要日程と内容の見直し

3、報恩講でお手伝いいただく方のお斎の見直し

 

 報恩講は親鸞聖人の祥月命日を機縁として念仏の教えに出遇う御仏事ですが、私たちにとって親鸞聖人という存在はどのようなものであるのか、または親鸞聖人の生涯が、現代を生きる我々にとってどのような意味を持つか。その問いを訪ねる真宗門徒にとって最も重要な御仏事です。これから、門徒と一緒に報恩講をお勤めいたしますが、この仏事が「一人(いちにん)の報恩講である」とともに、報恩ということを深くいただくご縁となればいいのではないかと思います。

 

※1 講(こう)・・・・・相続講と呼ばれるお寺の組織。

             宗門とお寺を支える聞法を中心とした寄合。全国の大谷派寺院で明治の頃始まった仕組み。

 

※2    講頭(こうがしら)・・・講を取り仕切るリーダーで、お寺と地域御門徒の連携をはかるパイプ役。

 

 

秋の法要がはじまります。

 10月もそろそろ終わりに近づき、いよいよ11月です。

萬行寺では2ヶ月に一回法要を行なっております。

11月は永代経法要が勤まります。

 

【ご案内】
 色は匂へど散りぬるを 我世たれぞ常ならん(涅槃経)
 右のことばは釈尊の遺言として有名な一文です。「この世のすべては常に移ろいゆくものである。だからこそ怠ることなく道を求め続けて歩め。」と語られ、釈尊はその生涯を終えてゆかれました。この言葉に励まされて道を歩んだ先達が語り継いできた言葉がお経です。浄土真宗ではその教え(お経)を直接聞かせていただく法要を『永代経』として報恩講とならぶ重要な法要として勤めてきました。
どうぞ、みなさま有縁の方々を誘いあって参詣ください。

2021年 報恩講 お浚い

 

 2021年の報恩講の法要日程は昨日で終わりです。しかし、報恩講は日程終了後に「お浚い」というお勤めをする伝統があります。古くから真宗門徒のあいだでは「お浚いまでが報恩講である。」と言われてきました。

 本来の形は法要の全日程が終わり次第、平常の荘厳に戻されます。そして、その日のうちにお浚いのお勤めを行うのが慣習なのだそうですが、萬行寺では翌朝の晨朝にお勤めしています。

 通常、お勤めの次第は和讃を六首を1組として勤めますが、報恩講の結願だけは「如来大悲の恩徳は」までの三首で終わることになっています。そのあとから昨日読まなかった三首を含めた和讃が始まります。この「仏智疑惑和讃」を含めて報恩講というのでしょう。ここに報恩講らしい仕掛けがあります。

 この和讃の順番はお勤めをする度に「すごくよくできているな」と感心させられます。

 一週間のお勤めですから、終わったあとの爽快感と達成感は格別です。しかし、この和讃は如来の智慧を疑う罪の重いことを知らせる和讃です。その一首目に『不了仏智のしるし』という言葉が出て”如来よりたまわりたる信心”を自分の手柄にするような我々の得手に法を聞く心を言い当てています。

 仏智の不思議を疑う者は「疑城胎宮・辺地懈慢」にとどまり、三宝を敬うことなく罪福をいのって仏恩報ずる心がないと言いきられています。結局は自分の欲望を満足させることにしか興味がないあり方を教戒しています。
 まるで「これで報恩講が終わったと思うな。それは大きな勘違いだぞ」と言われているようです。「自分はちゃんと修行したんだ。という充実感は、つまり驕慢心(自らを誇るこころ)だぞ」という戒めのようです。

 これをもって本当の意味で報恩講が終了になり、これから来年の報恩講へ向けての準備がまたはじまります。

 

2021年 報恩講7日目 結願

いよいよ最終日!!

最終日は「嘆徳文」と「御俗姓御文」が拝読されます。

儀式だけで一時間を超えます。

報恩講では初日と結願は特に真宗の伝統儀式の中では最も重要な儀式が勤められます。

一年の中でも一番心を入れてお勤めすべき儀式という意味ではないかと思います。それだけに親鸞聖人の存在が我々真宗門徒にとって大事なものであり、根幹をなす事柄であるということを儀式作法から教えられます。それだけに難しく手数も多く、普段からの心得が出てしまいます。

その反面、参詣者からすると「何をしているのかわからない」・「長すぎる」などの意見も聞かれます。

現代では長々としたものや分かりにくいものを嫌い、簡単で分かりやすく・手軽なものが好まれる傾向にあるのではなかとも感じます。分かりにくいものはとっつきにくいし、時間がかかります。堅苦しいければ人は近付きにくいし、誰でもができることではないのでどうしても難しくなります。

 そういった意味では、ある部分は現代社会の付託に応えることも大事で、見直しも必要ではないかとも感じてはいます。しかし、果たして何もかも現代流に直すのが必ずしもいいとは言えないこともあるようにも感じながら毎年勤めています。

伝統は伝統の良さと大切なところもあり、変えることは簡単なことなのかもしれません。

しかも何事においても現代の我々が昔の人より物を知っているとは必ずしもいえません。ですから、かえって伝統に学び本来のあるべき姿勢を学ぶことも大切ではないかと感じています。

いずれにしても、「このままで良いのか、いけないのか」ふらふらとさまざまとその塩梅の難しさを考えながら毎年勤めています。

怠け者のわたしだけにますます身が引き締まります。

 

<嘆徳文>

本願寺三代覚如上人( かくにょしょうにん ) の著である『 報恩講私記 ( ほうおんこう し き ) 』に、さらに重ねて存覚 ( ぞんかく )上人が宗祖である親鸞聖人の徳とみ教えと行蹟が詳しく述べられて讃嘆され、報恩講では始まりの頃より、覚如上人が著された『報恩講私記』(式文)と一緒に 諷誦 ( ふうじゅ ) されてきた。

 その内容は、聖人の見識や学識は内外にわたって広く、若き時、道を求めて悩まれた末聖道( しょうどう ) の教えを捨てて浄土の教えに帰依されたことや『教行信証( きょうぎょうしんしょう ) 』『 愚禿鈔 ( ぐとくしょう ) 』を著述されたことなど、

 

聖人の宗義を簡潔にまとめられた文。

 

<御俗姓御文>

の著で、親鸞聖人の御生涯と、報恩講七昼夜における心得を説いた御文。上人本願寺八代蓮如

 

 

最終日は法要終了後に片付け作業があります。講のみなさんと一緒にかたずけます。

今回は御華束の荘厳が出来ませんでしたので、はやくおわるかとおもいます。

2021年 報恩講6日目

2021年 報恩講6日目です。

 萬行寺報恩講は長いこと岡本英夫先生(島根県浜田市 徳泉寺住職)にご法話をお願いしきましたが、さすがに今回のコロナウイルス感染拡大の防止ということで今回のご法話は断念いたしました。

 

 そこで、今回の法要は日程こそ一週間というところは崩さず、25日を除く全てが日中のみとしました。そのお陰もあってか集中してつとめることが出来たように思います。

 本来ならば今日の夜は大逮夜(おおたいや)といわれ、雅楽も入って報恩講の中でも一番賑々しいお勤めがありますが、今回は楽入りのお勤めも断念しました。したがって今日も日中のみの厳修です。

本日のご法話は昨日に引き続き、お隣のお寺、長崎市三重町正林寺ご住職 松林大師です。

 如来は一切衆生の業を引き受けてくださるのです。親鸞聖人はその如来の本願を「不可称・不可思議・不可説」と表現され、既に如来は我々の業を引き受けてくださっているのだから「念仏は無義をもって義とす」とも曰われるのです。私たちは常に自分の都合を念じるような計らいの心を持ち、常に自分に義を立てようとします。しかし親鸞聖人は、自分に義を立てるのではなく、如来におまかせすることが南無阿弥陀仏の義ですよと仰っておられます。

 

これが終わると、いよいよ明日は最終日。結願(けちがん)です。

 

2021年 報恩講5日目

報恩講5日目。

晨朝(じんじょう)の御文は 三帖目十一通の「毎年不闕(ふけつ)」です。

報恩講の御文は、基本的に報恩講の時にしか読みません。ですから一年に一回しか読まないため読み間違いがあるかもしれません。

この御文は「文明8年正月27日」となっていますので、西暦になおすと1476年、旧暦の1月27日となりますでしょうか。

 

 

 そもそも今月28日は、開山聖人御正忌として、毎年不闕に、かの知恩報徳の御仏事においては、あらゆる国郡、そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、その御恩をしらざるものは、まことに木石にことならんものか。

これについて、愚老この四五か年のあいだは、なにとなく北陸の山海のかたほとりに居住すといえども、はからざるに、いまに存命せしめ、この当国にこえ、はじめて今年聖人御正忌の報恩講にあいたてまつる条、まことにもって不可思議の宿縁、よろこびてもなおよろこぶべきものか。しかれば自国・他国より来集の諸人において、まず開山聖人のさだめおかれし御掟のむねを、よく存知すべし。その御ことばにいわく、「たとい牛盗人とはよばるとも、仏法者後世者とみゆるようにふるまうべからず。またほかには仁義礼智信をまもりて王法をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねんごろにおおせさだめおかれしところに、近代このごろのひとの、仏法しりがおの体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもって当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまっさえ相伝もせざる聖教を、わが身の字ぢからをもって、これをよみて、しらぬえせ法門をいいて、自他の門徒中を経回して、虚言をかまえ、結句本寺よりの成敗と号して、人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実、あさましき次第にあらずや。これによりて、今月、二十八日の御正忌、七日の報恩講中において、わろき心中のとおりを改悔懴悔して、おのおの正義におもむかずは、たといこの七日の報恩講中において、足手をはこび、ひとまねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもってなにの所詮もあるべからざるものなり。されば、弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうえにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんど

 それ、当流の他力信心のひととおりをすすめんとおもわんには、まず宿善無宿善の機を沙汰すべし。されば、いかにむかしより当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機は、おのずから信を決定すべし。されば無宿善の機のまえにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かえりて誹謗のもといとなるべきなり。この宿善無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もってのほかの当流のおきてにあいそむけり。されば『大経』に云わく「若人無善本 不得聞此経」ともいい、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいえり。また善導は「過去已曾修習此法 今得重聞 即生歓喜」(定善義)とも釈せり。いずれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば、宿善の機をまもりて、当流の法をばあたうべしときこえたり。このおもむきをくわしく存知して、ひとをば勧化すべし。ことに、まず王法をもって本とし、仁義をさきとして、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくわえて、外相に法流のすがたを他宗他家にみえぬようにふるまうべし。このこころをもって、当流真実の正義を、よく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

本日の日中から明日の日中までお隣のお寺、三重町正林寺さまから松林大ご住職の法話です。久しぶりのお話。楽しみです。

 


 

2021年 報恩講4日目 中日 (御伝鈔拝読)

2021年 報恩講4日目は中日。

ちょうど1週間の折り返しです。

 法要は初・中・結とお参りするのが基本的なマナーだと昔から言われています。これは「初日・中日・結願だけ参る」というのではなく、少なくとも初・中・結の三回は必ずお参りするということなのだそうです。

法要には重んじられる日が初・中・結の三日で、今日の午前中を中日中(ちゅうにっちゅう)と言いい、とくに重んじられ、お勤めも格式の高い重厚なものです。

 

 来、法要というのは1週間、あるいは5日間にわたってお勤めされ、1日に晨朝・日中・逮夜の3回お勤めがあります。

逮夜とは、午後のことで萬行寺では夜の7:30より始まりますが、一般的には日中後に御斎をいただいてから概ね1:00か1:30ごろ続けてお勤めするのが従来のオーソドックスなスタイルのようです。

次に法要日程についてですが、その一例をあげれば報恩講ならば本山は一週間、別院では5日間となっていて一般寺院では3日間お勤めするというのが従来の形のようです。

もちろん一般寺院が1週間勤めてはいけないということではないだろうと思います。

これは私の勝手な憶測ですが、一つの基準として本山へ参詣するのが基本であるという観点から、そう言われているのではないかと思います。

 

行寺でもかつては春秋の両彼岸が一週間、永代経が5日間ありました。昭和43年にお勤めした宗祖親鸞聖人800回御遠忌法要は一週間勤めたという記録が残っているところを考えると、色んな意味で「すごい時代だなぁ」と思います。

当時より長崎の真宗寺院の多くが(本願寺派もふくめ)報恩講を一週間つとめていたというのを聞いていますので、当時の人たちの感覚からすると法要は一週間お勤めするものだというのが常識的だったのではないかと思われます。

ここで大事なことは、時代によって勤め方が変わるのも当たり前のこと。長くお勤めすることが大事なのではなく、ただダラダラとお勤めして緊張感なく徒労におわるような法要であるならば、むしろ集中して短い期間の方が大いに意義があるのかもしれません。

 

おつとめのあとは御伝鈔。

25日以外は日中のみのご案内ですが、今日だけは御伝鈔の拝読のため、逮夜勤めも行います。

今回は一つの試みとして日中に上巻を拝読し、逮夜は下巻を拝読します。
 

2021年 報恩講3日目

三日目は日曜日です。

法話:中川唯真師(九州教区長崎組駐在教導)

去年より長崎は「九州教区長崎組」と改称され、現在あらたな組(そ)の編成がおこなわれています。

九州は全国に先立って教区編成の名乗りをあげました。しかし、全国に大教区は多くありますが、どの教区もそれぞれの地域における独自性を持っているため、確かな手本となるものも多くはなく、新編成は何もかも手探り状態です。

その中で活躍している中川駐在さんは若手の方でもあります。

 

 中川師は萬行寺では初めてのご法話。今回はコロナウイルスの感染が拡大が心配されていることを鑑み、早めに御法話を終わっていただくようにお願いをしました。しかし、お話を短くまとめるというのもかえって難しいもの。そんな中で色々と印象深いことを語っていただきました。

中川駐在さんの出身地である滋賀県は蓮如上人の教化が非常によく行き渡ったご法義地でもあります。そんな滋賀県の話から蓮如上人のお話を聞かせていただきました。

 

この度のコロナウイルスの感染が広がっている中でいま立ち止まって考えるべきは教化のあり方ではないかと思います。

かつて蓮如上人はその教化力を生かして疫癘の蔓延した時代を生き抜いた方でもありました。

 蓮如上人はまず御門徒の各家庭で朝夕に正信偈をお勤めすることをすすめられました。そのために正信偈を改版してたくさんの人に配り、今様といわれる当時の歌を正信偈の節にして新たなお勤めの形式と作法をととえられたことも有名です。

 それから手書きの名号をたくさん配り、いつでも手軽にお勤めできるよう御門徒教化に尽力した人物としても有名です。それらの名号は現在でも驚くほどの数が現存しており、「自分ほど名号を書いたものは他にいないだろうと」いうことをおっしゃったことから想像してもびっくりするほどです。そのようにして疫癘の蔓延を逆手にとって門徒教化に勤しまれました。

そこで、現代の我々もその例に従って何ができるかということを考えると、わたしはこの度の報恩講で「お持ち帰り報恩講」というのはどうだろうかと思っています。今回自宅に帰って家族と「報恩講に行ってきた。こんなことが言われてたよ。」といって家族に御念仏をすすめるなんていうのもありかもしれません。

 

2021年 報恩講2日目

 1月 23日(晨朝)7:00〜

お朝事は文類正信偈をお勤めします。

報恩講の朝もいつのもように御文が拝読されます。ただし報恩講中だけは「報恩講の御文」とよばれてこの時にしか読まない御文が拝読されます。
今朝の報恩講御文は四帖目七通の「六箇条」です。年に一回しか読みませんので、読み慣れていないので間違いのないように注意して読んでいきます。

 

蓮如上人の聞き書きには、

「聖教は、よみちがえもあり、こころえもゆかぬところもあり。『御文』は、よみちがえもあるまじき」と、おおせられそうろう。

 

と言われるように、御文をいただくということは大事である。それと同時にお聖教のように難しいものではなく、親しみやすく平易な文体や文章である分、普段から読み慣わしていることが肝要である。だから「読み違えはあるまじき」ということではないかと思います。それにしても、報恩講の御文は全体を通して長いものもあります。それだけに蓮如上人もおもいを込めて書かれ、なおかつ拝聴させていただくとと、肝要の法要であるだけに真宗門徒として大切なことを心得やなどが随所に書かれているのだなとあらためて感じます。今更ですが・・・・。


先、総 礼

次、文類正信偈 草四句目下

次、念 仏   濁三

次、和 讃(浄土 五)

  初重「安樂佛土の依正は」

   「安樂國土の壯嚴は」 

  二重「己今當の往生は」          

   「阿彌陀佛の御名をきゝ」

  三重「たとひ大千世界に」

   「神力無極の阿彌陀は」               

次、廻 向  世尊我一心

次、御 文 「六箇条」 四帖目七通

次、総 礼

 

 

 

 1月 23日(日中)10:00〜12:00

まだまだ序の口ですが、準備初日から数えると9日目ということもあり、そろそろ中だるみがはじまる頃かと思います。

ここのところを一つ気を引き締めてかからなければいけないところですね。

本日の法話は役僧の三澤師がいたします。この『役僧』という呼称はあまり使われなくなり、一般的には今日では『法務員』という呼称が使われるようになりましたが、萬行寺では伝統に乗っ取って「役僧」という呼称でよばせてもらっています。

如来・聖人から「浄土真宗をお願いします」と願われている担い手であるという意義で「役僧さん」と呼ばせてもらっています。やはり「役割を担う」ということは大変重い意味があるのだと感じるからです。

さて、萬行寺では各法要でも役僧さん方にも出来るだけ法要が勤まるときには機会を見つけてご法話をしていただくようにお願いしています。日頃から各家庭にお参りの際にもお勤めと法話を中心に法務をお願いしております。

色んなお坊さんの法話を聞くことができるのも一つの面白さではないかと思っています。例えば同じ題の話であってもお坊さんによって切り口やアプロートは違うものですから、聞く方も楽しみがあるのではないだろうかという一つの思いがあります。

 

先、総 礼

次、文類正信偈 行四句目下(赤節譜)

次、念仏讃   濁五三      

次、和 讃(浄土 六)       

 初重「自餘余の九方の佛国も」

   「十方の無量菩薩衆」

 二重「七寶講堂道場樹」

   「妙土廣大超數限」 

 三重「自利利他圓滿して」

   「神力本願及滿足」

   五遍反

次、廻 向   願以此功徳

次、改悔文

次、総 礼

次、真宗宗歌

次、法 話 三澤教悟(萬行寺法務員)

次、恩徳讃

次、総 礼

2021年 報恩講 初日

ようやく本日初日です。

全国では一部地域に非常事態宣言が出され、コロナウイルスの感染拡大が心配される中での厳修ですので、どれだけの方が参詣されるかわかりませんでしたが、蓋を開けてみるとおおよそ60名程度の参詣がありホッとしました。

この状況での初日としては、まずはいい滑り出しだという言ってもいいのでしょうか。

お寺も出来るだけの感染対策を行っての法要なのですが、どこまですれば対策として万全といえるのかも全くわかりません。

まずは終わるまで何もないことをただ願うのみです。

今回の報恩講も1週間の日程ですが、今回に限り25日を除いて日中のみの厳修といたしました。

 

 

 

 初日は『報恩講私記』拝読。祖徳が讃歎されます。

 

 <報恩講とは?>

 親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人の頃、永仁2年(1294年)に親鸞聖人の33回忌を勤められるにあたって「報恩講私記」を著して拝読し、親鸞聖人を讃歎されたことが報恩講の濫觴(らんしょう)であるといわれています。

 覚如上人はその報恩講を機縁に本願寺を中心とする教団の基礎を築かれた方で、実質的には本願寺の開祖ともいわれています。

 「報恩講私記」には、本文の導入にあたって、まず敬って十方三世の諸仏方や念仏伝来の諸大師等に対して誓い、そして聖人が世に出られた意義を3つの徳としてあげ、その聖人に対する御恩を讃えられます。

 その3つの徳とは、真宗興行の徳・本願相応の徳・滅後利益の徳の三つで以下のように述べられています。

 

1、真宗興行の徳

 親鸞聖人の御一生を偲美、他力真宗の興行は宗祖より始まったことをあきらかにされ、「すべからく仏号を称して師恩を報ずべし。」と一段を締めくくります。

2、本願相応の徳

 浄土真宗のみ教えは、疑うものも必ず信を執り、謗ずるものも情を翻す仏意(本願)にかなったの教えであることをあきらかにされ、「おのおの本願を持ち名号をとなへて、いよいよ二尊の悲懐に恊(かな)ひ、仏恩を戴き師徳を荷なひて、ことに一心の懇念を呈すべし。」と二段を締めくくられます。

3、滅後利益の徳

 宗祖ご往生の後、その遺恩を尊び身命をかけて「境関千里の雲を凌ぎて」関東より毎年ご門徒達が参詣され、廟堂に跪(ひざまづ)いて涙をながされ、その思いを「遺骨を拝して腸を断つ。」と表現されています。そして「祖師聖人(親鸞)は直也人にましまさず、すなはちこれ権化の再誕なり。すでに弥陀如来の応現と称し、」と宗祖は阿弥陀如来の化身であるとしめされ、「おのおの他力に帰して仏号を唱へよ。」と讃歎されます。

 

 この生涯を挙げて親鸞聖人が歩まれた念仏の大道を訪ね、その願いに生きた先人たちのたゆまぬ努力によって、今日の我々にまで念仏のみ教えが届けられたのです。そう考えるとなんとも有り難いことです。

 

今年は初めての試みとして、あるお寺の御遠忌の記念品としていただいた現代語訳を拝読しました。

2021年の報恩講、明日からはじまります。

いよいよ明日から報恩講が始まります。

今日は午後から荘厳。

境内の掃除や幕を張ったり、提灯を下げたりと講頭の方々も集まっていただいての総がかりの準備です。

 

 毎年ですと1/15日から一週間かかって準備をし、一週間の法要をお勤めしていますが今年はなかなかままなりません。

一応一週間の厳修と準備はいたしますが、今年は御華束つくりを断念し、法要期間は今までの一週間いたしますが逮夜を25日の御伝鈔以外は止め、日中のみのお勤めに変更いたしました。まだ刻々と変わる状況の中で決定案が出せないままでおります。

どこまで対策をすればどの程度防げることなのか、どこまで対策をしていればどの程度安心出来るのかも全く未知数のコロナ対策。

これはさすがに誰にもわかりません。

今回は報恩講に参詣される皆様へ以下のことをお願いし、お寺の方でも以下のことを徹底いたします。

●マスクの着用と手指の消毒をお願いします。

 ●体温が37度以上の方や体調のすぐれない方は参詣をお控えください。

 ●休憩ごとに換気をいたします。