第1組 組門徒会・総代等研修会

長崎の大谷派は現在50ヶ寺があります。そのうちの20ヶ寺が第一組(だいいっそ)と呼ばれるグループで、長崎市内から諫早と島原にわたって形成されています。その第一組の総代と組の門徒会の合同の研修会として熊本に研修に行きました。大型バス一台を貸し切っての研修です。この日の宿泊は阿蘇です。

 

熊本の地震によって被害を受けた本堂は相当痛んでいました。明日役員会を開いて本堂を取り壊す事になるんだそうです。

地震がなければまだまだ使える本堂なだけに残念です。

お寺の本堂は立てるのに相当な苦労がいります。何人もの住職さんが過労や心労のために命を落としたり短命に終わったりするほどの苦労があると聞いています。それだけに本堂が使えないという事態は深刻だと思います。それ以上に周りのご門徒さんの家庭にも被害があるわけですからさらに深刻です。またいつ来るかわからない地震に怯えながらの生活でもある上に、それぞれの生活の再建も絡んで複雑な人間模様。色々と悩みは複雑です。

 

熊本教務所の本堂は解体が進んでいました。天災の凄まじさを感じます。

 

儀式作法講習会

今日は教務所で儀式作法講習会です。七条袈裟のつけ方の講習を受けました。いかに普段適当に七条をつけていたことかと思いました。ちゃんとつけると随分と違うものですね。今までどんな着方をしていたんだかと思われ、反省です。

 

長崎教区 秋安居開筵

日から3日間秋安居(しゅあんご)が行われます。
長崎教区の安居は70年以上昔、西坂(現在の長崎駅前にある26聖人殉教の地)に長崎教務所があった時代、『夏期講習会』として始まったそうです。

下の写真は年代は不明ですが曽我先生がおいでになられた時の安居の写真です。

曽我先生来崎安居

夏になると、教区内の住職や若院。あるいは法務員が柳行李を担ぎ、暁烏敏、金子大榮、曽我量深などの浩々洞(こうこうどう)の諸師方の講義を聴聞にきていたと聞いています。この伝統が受け継がれ、現在の筑後町に教務所が移転しても相変わらず浩々洞出身の先生方が出講されていたそうです。曽我量深先生が昭和45年までおいでになられ、昭和46年に御遷化。その頃、長崎教区で『秋安居/しゅあんご』という名前で呼ぶようになったと言われています。

 

 最近まで長崎教務所で毎年行われていましたが、今では住職だけではなく、各お寺の役僧さんも多く集まるようになり、現在ではおおよそ50人以上の聴講者で本堂がいっぱいになるようになりました。そこで7年ほど前からだと思いますが、会所を佐世保別院に変更して行われています。今回は佐世保別院が会館建設のため、久しぶりに長崎教務所での開筵となりました。

来ならば、安居というのは、本山の本講の先生がおいでいただいて講義されるのですが、長崎の場合は、そういう先生方をお呼びせず、聴講したいと思う先生方においでいただいていますから、いわば純粋な安居ではないそうです。本講の先生方を呼ぼうという声もありましたが、初心を忘れず現在でも「夏期講習会」のスタイルをとっています。
安田先生ご夫妻来崎安居右の写真は安田先生ご夫妻が安居で来崎した頃の写真です。ちらほらと見覚えのあるかつての住職の顔が見えます。(向かって前列の左から3番目の下を向いているのが萬行寺の先々代の住職亀井信之。)

つて安田先生は曽我量深先生にこういわれたのだそうです。「「安田君、あなたは、長崎に行ってみなさい。長崎の皆さんは、威儀正しく墨袈裟を掛けて正座をしているんだ。そこにあなたは行ってください」といわれてきたのだ」という話を聞きました。

 

 

今回は先年に引き続き『「正信偈」に聞く』というテーマで。今回は「大乗の仏道としての浄土教」講題で行われます。ご講師は今年で4年目になる藤場俊基先生です。

佐世保別院報恩講

佐世保の中心地に東本願寺があります。
周りをビルに囲まれて見えにくいのですが、島の瀬公園の歩道橋を渡ると大きな階段があり、その階段をのぼるとあります。
「東本願寺」ときくと、京都駅前にあるあの大きなお寺、という印象が強いかと思いますが、実は全国各地に東本願寺はあります。それぞれ名前や呼び方が違いますがどれも由緒ある立派な寺院ばかりで、その中には東本願寺を凌ぐのではないかと見まがうほどの境内地を備えたお寺や、東本願寺の大きさの印象からすると「これが東本願寺?」と思われるような小さなお寺まで様々です。
一般に各地の東本願寺は「別院」または「御坊(ごぼう)」などと呼ばれ、各教区の中心的役割をになっています。
ここ佐世保別院は長崎教区の帰依処として長崎の各地のお寺からご門徒の参詣があります。
毎年11月の報恩講は団体参拝を計画しての参詣があります。

この佐世保別院報恩講は最近になって定着してきた行事で、年々参詣者が増えているようです。
それまでは佐世保別院の認知度も低かったようですが、次第に自分たちの別院であるという認識も高まってきているようにも思います。
今年もにぎやかに報恩講がつとまり、萬行寺からも大勢の団体参詣があり、大型バスで参上しました。

子ども報恩講

子ども報恩講1毎年恒例の佐世保別院にて行われる「子ども報恩講」。
佐世保別院での1週間の報恩講にあわせて厳修されています。人形劇やアスレチックなどを3日ほどかけて準備しました。
様々なブースで小さな求道者たちと一緒に学ばせてもらう一日。
しかし、今年はまさかの雨天。子ども報恩講も長いことやってきましたが当日の雨は初めてのことです。毎年前日の夕方に雨が降って翌日には晴れるのが通例でしたが、今年はイレギュラー。しかも結構降っています。
アスレチックは危険なので中止。もしケガをしたら大変ですから特別の処置です。急遽内容とプログラムを一部変更し、規模を縮小しました。
何日もかかって準備したのに出来ないのは残念。実に雨に泣かされました。
 まったくな自画自賛の手前味噌ですが、長崎教区の子ども報恩講は聞くところによると他にはないほどの大掛かりなのだそうです。




毎年、準備におわれて親鸞聖人の報恩講ということ、お寺の法要ということを忘れがちで、子どもたちを喜ばせることに夢中になってしまいます。お寺という場所は楽しいところ、遊びにいきたいと思われることはまず第一条件ですが、あくまでも手段であって目的ではありませんので、そこのところが思案のしどころだと思います。また、子どもに教えを伝えるのはとても難しいことですので、皆で協力して知恵を絞って、どうすれば教えが伝わるか考える必要があるように思います。例えば、教えの言葉や七高僧の名前等を覚えてもらう工夫などがあってもいいのではないかと思います。しかし、これを具体的に形にするとなればさらに難しくなります。まだまだ工夫が必要だと思います。

声明講習会

桶屋町の光永寺にて、御親修の御遠忌を想定した講習会がおこなわれました。光永寺では御親修で御遠忌が勤まります。御親修とは、御門首直参の法要で御門首が登壇されて法要を行います。
今回の講習会は装束をつけての模擬法要を行いました。御門首がおいでになられる法要ですから式次第も本式で儀式自体も重い法要の型式になっています。またお勤めの時間も長くなってきます。しっかり練習をしてのぞまなければいけない法要です。裏方さんは大変です。一般寺院では使うことのない御門首のみが使う仏具や、初めて見る作法もけっこうあって大変勉強になりました。


後堂の出仕口には立派な鳳凰が描かれていました。

非核非戦シンポジウム

東本願寺長崎教務所にて、「非核非戦シンポジウム」が開かれました。
講師に川棚の福浄寺住職である深草昭壽師をお迎えし、パネラーに寺本温氏(第二組 崎戸真蓮寺住職)・武宮智水(第三組 正蓮寺住職)をお迎えしパネルディスカッションも行いました。長崎教区では長崎の原子爆弾投下から間もなく70周年を迎えます。そこに向けて教区では原爆70周年記念の「非核非戦法要」の計画があがっています。
深草先生は非核非戦という言葉の意義と、0回大会の雰囲気を語ってくださいました。パネルディスカッションではそれぞれのパネラーが出会った非核非戦を語っていただきました。とても有意義なシンポジウムでした。

遇願洞

今日は愚願洞。
若手を中心とした学習会、ただいま「本願文」を勉強しています。
仏説無量寿経の中で要中の要、四十八願をもう一度学んでみたいということで、始まったばかりです。
毎回発表者を決めて研究発表していただきます。
なかなか和気あいあいとして楽しい学習会です。

非核非戦法要 共に生きよ

8月9日は長崎で会いましょう。

<68年目の非核非戦法要厳修!>

 この法要は、たった一発の原子爆弾によっていのち奪われた人々の声なき声を聞きつつ、人間の心の闇を破ろうとする如来の大慈悲をいただく法要です。
長崎教区は原爆をご縁に長い間この法要を大切に勤めてきました。戦後の長崎教区は非核非戦とともにあったと言っても過言ではなかったといわれています。
私たち人間の心の在り方を“戦”と“核”という言葉で表現し、その心に「非」と問いつづける如来の深心を「非核非戦」としていただいてきました。
そこからたった一発の原爆によって焼かれ亡くなっていった方々が、人間という「いのちの相」は私たちに何を語りかけているのか。そのご縁を通して私たちは南無阿弥陀仏の教えをどのようにいただいていけばいいのか考えてきました。

 一般的には「非核非戦」と聞けば、戦争反対!核兵器反対!というイメージで受け取られそうなこの言葉。単にそこにとどまる言葉ではありません。
平和を求めて平和のために殺しあう。たがいに涙を流し、傷ついてもまた平和を求めて争いあう。これもまた人間ゆえの悲しみでもあります。
「戦争反対」と叫べば、その言葉によって新たな争いを生み出していくのも私たちの宿業です。「人間は互いに平和を叫びながら、銃を向けあい互いに傷つけあう存在」とある先生が言っておられました。

戦争を興すのは人間の「心」です。自身の欲望追求のために「核」を造ったのも人間の心です。自身の欲望のためにそんなものを造り出してしまう人間の心の闇(核)に「非(あらず)」といい、自身の欲望のために争いあう心に「非」と如来が叫んでいる。その大慈悲を指している言葉です。


 非核非戦の碑の中には原爆で亡くなった何万体ともいわれる引き取り手のない人たちのお骨が入っています。一発の原子爆弾によって焼かれた人々。その声なき声に耳を傾けると、「共に生きよ」との声が聞こえてくるのです。

 釈尊はこのようなことを言われています。
(要約)争いあい憎しみあう世界の中にあっても、われわれは争いあうことなく憎しみあうことなく安穏に生きよう。


非核非戦の碑 清掃奉仕

今日は毎年8月9日に長崎教務所にある長崎教会で行われている「非核非戦法要」の準備で境内の清掃作業です。


「非核非戦の碑」は、長崎教区の歩の中で最も大事にしてきた財産でもあり、教化活動でもあり、法要でもあります。<以下は長崎教区HPより引用>■1945年8月9日11時2分、長崎上空に飛来したB29「ボックスカー」より投下された一発の原子爆弾によって、長崎は一瞬にして「死の街」へと変貌しました。その時の死者は、約15万人とも言われています。■累々と横たわる亡骸は、その多くが荼毘に付されたものの、その後長らく野ざらしになったものもあり、また荼毘には付されたものも、お骨の状態で放置されていたものも多くあったと聞き及んでいます。そして、多くの亡骸を荼毘に付し、放置されていた場所のひとつが、現在の松山陸上競技場だったそうです。
■原爆投下の翌年、進駐軍が松山陸上競技場に飛行場を建設することとなりました。このままではお骨が重機に踏み潰されてしまう、と危惧された人々が立ち上がり、進駐軍に飛行場の着工をしばらく待たせ、その間にお骨を収集しました。その後も、お骨が見つかるたびに納められ続け、今では1万体とも、 2万体とも言われるお骨が、ここ長崎教会の「非核非戦の碑」に、収められています。■しかし、この収骨所は、決して原爆で亡くなった方々の「慰霊」のために建てられたのではありません。ヒトを殺さねばならなかった、戦争をせねばならなかった、そして原爆を造り落とさねばならなかった、すべての人間の「無明」が、私の「愚かさ」が明らかとなる「場」として、この収骨所はあるのです。■国籍も、出身地も、名前も、年齢も、性別も、まったく分からない人々が私たちに尋ねて下さるのは、「共に生きよ」ということです。それ故、他者にはたらきかける「反」をも内に抱き、自らのうちに問いかける「非」ということばをもって、碑文としました。是非一度、お立ち寄り下さい。



そのあとは毎年恒例のバーベキュー。匂いに誘われて仕事上がりの若者達が夜な夜な集まってきます。
賑やかな夜です。

学習会 遇願洞

若手を中心にした学習会「遇願洞」。
もう何年になるのでしょうか。

3年前の宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会にて、同朋会運動の学習会を進めるとこいう事を協議決定し、御遠忌後から同朋会運動について学習を行い、長崎における同朋会運動の展開と歴史を先輩方に学ぶということを主眼において進められた冊子がみごと完成しました。
今回から新たな学習内容「本願文」について学ぶことになりました。トップバッターの発表者は第一組、浄満寺の若院さんです。
最初はまず「第一願」。

設我得仏 国中人天 地獄餓鬼畜生者 不取正覚


長崎教区秋安居(ながさききょうく しゅあんご)三日目

信偈に学ぶ
本願念仏の歴史 ー法蔵菩薩願心の成就ー
    藤場俊基師

 最終日の今日は寺族物故者の追徴法要が行われました。
今年は三名の方が亡くなられました。ああそういえば、あの人も亡くなられたんだったなと
それぞれ寺院の興隆に力を尽くされた方々です。

さて、長い間「往生」と「成仏」という問題をどのように捉えていけばいいのかという大論争がありました。これを曽我量深先生は「往生は心にあり、成仏は身にあり」という端的な言葉で明確に示されておられます。