秋季 彼岸会をお勤めします!!

秋のお彼岸をお勤めいたします。

<ごあいさつ>
向秋の砌、御門徒の皆様におかれましては聞法精進のことと拝察いたします。
この度の法要は新型コロナウイルスの感染を避けるための対策として、左記のごとく厳修いたします。

さて、日本に仏教が伝来した頃、各地で疫癘が猛威を振るい、人々のこころを扇動しました。親鸞聖人が和国の教主と仰がれた聖徳太子は、その不安からの開放を仏教に求めました。
現代の聖徳太子と呼べる人は悲しいかな出てきませんでしたが、後の仏教徒たちによって護念されてきた教えは、現代を生きる私たちに「不安に立つ」ということを教えてくださるでしょう。

今回は県外の方は出来るだけお控えください。皆様のおいでを如来さまがお待ちしております。

 

今月のなあに 「打敷ってなあに?」

打敷ってなあに

 打敷(うちしき)とは、お内仏の前卓(まえじょく=各尊前の机)や上卓(うわじょく=阿弥陀如来前の須弥壇上にある机)等にお掛けする、金襴や刺繍などでできた三角形状の上掛けのことをいいます。
この打敷は、常時お掛けするものではなく、春秋の彼岸会や、報恩講、降誕会などのご法要がお勤まるときにお掛けすることが本来です。 法要の時など特に丁寧におつとめすべき法会にお掛けします。その法要の軽重によって打敷の種類を替えることもあります。
また夏用の「紗」や「呂」などの薄手のものや、冬用の厚手の生地のものもあり、それぞれ季節に合わせて衣替えするのも良いでしょう。

 打敷の起源は、辞典によると、お釈迦さまご在世の時代まで遡ります。その様子を記した教典によれば、「種々の天の妙服衣をもってその座上に敷く」や「無量の宝を以て、周匝細飾(しゅそうさいじき)し天の妙衣を以てその上に敷く」などと説かれ、お釈迦さまが説法される高座を珍宝や妙衣で荘厳したと説かれています。これが打敷の起源であろうともいわれています。
また、『仏説無量寿経 巻下』の『東方偈』には


一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華・宝香・無価(むげ)の衣を齎(も)つて、無量覚を供養したてまつる。

とあり、十方微塵世界の無量の菩薩衆が阿弥陀如来のみもとへ往覲(おうごん)し、その極楽世界の微妙にして不可思議尊の荘厳を観て、自分たちの国土もこのようにありたいと願阿弥陀仏の国土を称讃されます。
そして、これらの菩薩衆は阿弥陀如来を麗しい香華や尊衣をもって供養するのです。ここに、「無価(むげ)の衣」つまり「何物にも代えがたい尊い衣」とあります。
 これらの表現は釈尊ご在世の時代、人々の布施行により頂戴された布を縫い合わせて袈裟が作られましたが、それらの尊い布施が「無価の衣」ということではないでしょうか。
お釈迦さまのみもとをお飾りしてお迎えしたいと願った仏弟子達の思いが形として現れたものと言えるでしょう。

 

<お内仏の荘厳>
 平時には木でできたロウソク(木蝋)を挿し、輪灯に火を灯します。ただし、輪灯が今日のように電気の場合はロウソクに火を灯します。
下写真のように向かって左に花瓶(かひん)・中央に香炉・右側に鶴亀燭台をおきます。ただし、平常時は三角の布(打敷/うちしき)はしません
中陰の場合には、色のついた打敷ではなく白や無垢の無地のものをもって荘厳します。

 

法事は期日が命日より遅れて行うのはダメ?

昔から言われていることのようですが、一般的に法事をつとめる場合、命日より早く行うほうが良いと言われていますが、真宗の教えにその根拠はありません。

ただ一つ言えることは生きている者の都合ばかりを優先するならば次第に仏事は疎かになっていくでしょう。
しかし、命日より遅れてするのは良くないと言って、ただ慌ただしく過ごして肝心な仏法聴聞が出来なくなるようならば何の意味もありません。
 たとえ命日より期日が遅れて行ったとしても、そこに集う人たちが落ち着いて仏法聴聞できるようであれば大変良いことではないでしょうか。

何よりも大事なことは仏法を聴聞させていただく報謝の心が整わないようであれば、いくら怠りのない完璧な法事であってもお勤めしたことにならないと言えましょう。

sayonara長崎教区

谷派の新年度は実は7月始まりなのです。

昨今、「国際化社会に対応する」ということで4月始まりではなく9月始まりがいいのではということが話題ですが、現在の4月始まりはそれほど古い伝統でもないようです。戦時下における徴兵制度により、「4月はじまり」になったと聞いてビックリしました。

「え?そんな理由?」と思ったのは私だけではないでしょう。

古来日本の新年度は夏の衣替えとともに7月始まりが伝統だったそうです。それも農繁期などを鑑みてのことではないだろうかと想像できます。

ころで話は変わりますが2020年の6月30日をもって長崎教区は長い歴史に幕を下ろし、2020年7月1日より「九州教区 長崎祖」に生まれ変わります。これまで長きに渡って『真宗大谷派長崎教区』と名乗ってきたのですが、まだ実感がありません。

これも時代の流れなのでしょうか。これにあたって様々な組織編成についての会議が縷々急ピッチで行われています。財政の問題や教化の課題などなど、これからもこれまでも問題が山積です。

 

 

日曜学校 子どものつどい「ボチボチいこか」

 ようやく日曜学校が軌道に乗りつつあります。

今日は10名のこどもたちがやってきてお昼ごろまで楽しく遊んで帰っていきました。

 それまでの何年かは、お寺の3人娘と5人でのお勤めの日々が続きましたが、ここのところ2〜3年はボチボチ子どもたちが集まってくるようになりました。

 ただ多く集まればいいというものではないので、その辺りが大変難しいところです。

 今回は初めて日曜学校に来てくれた子もいて、初日から正信偈を全く違和感なく上手にお勤めができました。

日頃から家庭でお勤めをしている子たちで、すぐに溶け込んで仲良くなっていました。

 人間って何かしらの共有感って大事ですね。

お互い知らないどうしでも、共有できる何かがあれば、特に子どもの場合はすぐに仲良しになります。

話に前提条件が要らないのが何よりも安心感があるのでしょうかね。

お話は毎週ごとに親鸞聖人の御生涯を少しづつお話しています。それが終わったら何をお話しするかな。

お祝いの仏事

 世の中にはいろんなご縁があるもので、本日のお勤めは名目上は一応「厄入り」。

 濱田家の先代の肝っ玉ばあちゃんの仰せ、「とにかく仏法を」・「仏法を聞かなければ本当の人間になれんぞ」という遺言に応えて息子さんの40歳のお祝いとして3代そろって一緒にお勤めをいたしました。

 濱田家は代々仏法にご縁のある家庭で、お父さんの孝則さんは総代さんもつとめていただいています。

 こうやって仏法に近づくのためのご縁であればお安い御用です。いつでもどうぞ。

 

 孔子の論語に
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る

、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

という有名な言葉があります。

 これは孔子が晩年に人生を振り返って言ったことばなのだそうです。これを聞いて果たして人生を振り返ってこのようなことを言える道を歩んでいるのかといえばまことに心許ない限りです。

 一方、現代という時代は、「正しく生きる」ことに誰もが惑っている時代でもあるように思います。逆から言えば「惑うことに恐れをなす」時代とも言えるし、「正しくなければいけない」という価値観が自分を苦しめていることでもあるのでしょう。

 人間には何が正しいのか分からない。だから人は惑う、それは人間の宿業なのでしょう。

しかし、迷わない人間はいないし、迷ったことがない者が正しいということに目覚めるということはありえない。やっぱり、人間は仏法を聞かなければ堂々と惑うことさえできない存在なのです。
 ときにはその「正しく生きたい」というおもいにあやしげな宗教がすり寄ってくることもさえあります。かつて立派な科学者や明晰な学者などがその正しさに惑いある宗教団体に入信したことは多くの人の記憶にあることでしょう。

しかし、迷わない人間はいない。この孔子の言葉は、むしろ迷ってばかりの人生に惑わなくなったということではないでしょうか。

本日はおめでとうございます。

仏事のとき「献杯」ってしないの?

法事をつとめた後、食事をしますが、そのことをお斎(おとき)と呼びます。その際に昨今では「献杯(けんぱい)」という行為をよく見かけるようになりました。

 爾来、仏教では禁じられた行為と率先して行うべき行為を定めたられた「戒律(かいりつ)」というものがあります。

飲酒は「殺生」と並ぶ禁止行為の代表格として「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」と呼ばれています。言われています。

その理由は飲酒をすることによって悪業の原因になるとされていました。本当にその通りで、御斎の時などは食べ物を放埒にして貪ったりするなどついついしてしまいます。それらは修行の妨げになるなどの観点から、仏事の際には酒を飲むことが禁止されていました。

<献杯はそもそも仏教の儀式ではない?>

以上のようなことから、仏事の際にはで飲酒をすることがありませんでした。

神事においてはお酒は穢れを払い、禊(みそぎ)をして献げるという行為があるようですから、そこからきたのかもしれません。

 

<合掌していただく>

御斎は仏事の一つとして大事にされてきました。その際には「献杯」はせず、「いただきます」と合掌していただくよう、普段から心がけたいものです。
 

●「お斎(おとき)」について

 お斎はいわゆる食事会ではなく、命を頂き・命に感謝し・海山の恵みを我が身にいただく、れっきとした「仏事」なのです。
私たちの日々の営みは「生・殺」の」繰り返しです。そんな生活の中にあって、私たちは命について考えることが程あるのでしょうか。

●命日

「いのちに学ぶ日」を「命日」と言いますが、お斎の際の食卓に並んだあまたのいのちは誰かのための犠牲として捧げられたものではないのでしょう。そういったことから、御斎は精進を基本とし、出来るだけつつしんでいただくことが大切であると言われています。

 

お斎の際には、下の言葉を唱和していただきたいものです。

 

【食前のことば】
み光のもと、われ今幸いに、この浄き食をうく いただきます

 

【食後のことば】
われ今、この浄き食を終わりて、こころ豊かにちから身に満つ ごちそうさま

 

供養ってなあに?

萬行寺HPより転載

 

「供養って、なあに?」

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず 『歎異抄』

「供養」はインドの言葉で「プージャナー」、あるいは「プージャー」といい「尊敬する」「崇拝する」という意味です。
供=卑しき物を尊い者に勧めること。
養=卑しき物によって尊い者を資(たす)けること。

故人を慰めるために行う儀式ではなく、生きている私たちが学ぶこと。
仏(法を説く人)・法(教えそのもの)・僧(教えを聞いて道を求める人々)の三宝に衣服・食物・薬品・財物などを捧げ、敬うこと。
<本来、インドの仏教は・・・・>

 バラモン教が動物の犠牲による儀式であるのに対し、仏教は不殺生の立場から「供養」という言葉を理解したものと言われています。
そして、礼拝の対象へ水、華、香、灯火などを供えることとなり、やがて、現在のような意味になりました。 つまり、「自分自身を卑しい者と自覚し、その上で自分にとって一番大切な物品を尊き者に対してそなえること」と言うことができると思います。

日本の民間信仰においては死者や先祖に対する追善供養のことを特に指していわれますが、本来の仏教的理解からすると程遠い考え方であると言えるでしょう。

<真宗の供養>
真宗では「追善供養(ついぜんくよう)」はいたしません。
=亡くなった方の冥福を祈り、亡くなった方の生前の罪を拭うため生者が死者に善行を差し向けることを「追善供養」と言います。
法然上人、親鸞聖人が私たちに勧める念仏の教えでは、そういった修行は雑行(迷いを深める修行)であるから、そこからは遠離せよとハッキリいわれ、本願寺の8代目の蓮如上人は「雑行を投げてて、一心一向に弥陀をたのめ」といわれています。
また、法然上人の遺言には”追善の仏事ではなく、報恩の仏事をするように”と言われていることから、真宗でいう供養とは仏様の教えを聞くことが何よりの仏事であると云えます。

 

雑感。モジモジしたら書きたまえ3

<悲しみの深さの中に 共に出遇える世界のあることを知る。>

 

近な方を亡くすのはとても悲しい。その別れが受け入れ難いことであればあるほど、私たちはいつまでもそのことを忘れることができません。

 

き人とのご縁を「有り難かった」といただけるお別れあり、また若くして亡くなった我が子のことをおもうと、ポロポロと涙が出て止まらなくなる人あり。(我が子だけではないのでしょうが・・・・)

そこで「いつまでも悲しんでいられない」と立ちあがって、その悲しみを仏法に投げかけてみるけれども、聞法してもそのご縁が「有り難かった」とは受け入れられない。それももっともです。

 

どうにもならんというが、どうにもならぬことはどうもせんでいいのであります。自然なのであります。それをどうかせねばならぬと思っているのがはからいで、そのために暗いのであります。どうにもならんことは暗いのではない。それはどうにもしないでいいことなのであります。(仲野良俊)

 

をなくして見送る悲しみはどこまでも深いのでしょう。しかし、見送られる方の立場に立って想像してみれば、そういつまでも泣いていも困るのではないかと思うのです。

そして、その悲しい気持ちを一体誰がなぐさめてくれるのかといえば、やはり先立って亡くなっていかれた子より他には誰もいないのだといえます。だから、「そう悲しまず、どうぞ親不孝の罪を許して仏法を聞いてください」というのが亡くなっていかれた方々の切実な願いなのではないでしょうか。

 

子をたすけるのではなく、子にたすけられる私なのです。

 

そこに親子が「共にたすかっていきたい」という”人間の本有の願い(本願)”を互いに念じあっている。だからこそ、「その悲しみを縁として、悲しみを超えた世界に共に出遇って欲しい」と十方世界の彼方の仏から願われている存在が私たちなのです。

 

亡き人を案ずるあなたが 亡き人から案じられている  (廣瀬 杲)

 

こういただかれた時、手を合わせるこころの中に新たな世界が開けてくるのでしょう。(釈大攝)

5月予定の春季永代経法要について(お知らせ)

令和2(2020)年5月予定の春季永代経法要について(お知らせ)

 

謹啓 仲春の候、御門徒の皆様におかれましては益々ご清祥のことと拝察いたします。平素より萬行寺護持興隆にご尽力いただき御礼申し上げます。

さて、5月14日(木)から16日(土)までの3日間、毎年恒例の「春季永代経法要」の厳修予定で準備をすすめておりましたが、連日報道されております新型コロナウイルス感染拡大に伴う「緊急事態宣言」を受け春季永代経法要は中止にはせず、参詣者されるみなさまの受け入れはしない形にて予定通り(逮夜は無し)の日程で寺内一同でお勤めすることといたしました。

尚、法要期間中は御門徒の皆様におかれましては自宅にてお内仏の荘厳を整え、ご家族皆さまで各自永代経法要をお勤めくださいますよう、よろしくお願いいたします。         合掌